民主主義(大衆の支配):異質なものを排除するシステム
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民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)
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民主主義(デモクラシー)とは、大衆の支配ということです。これは現実の政体とは関係ありません。たとえば、マキャヴェリは、どのような権力も大衆の支持なしに成立しえないといっています。これはすでに民主主義的な考え方です。(柄谷行人 『〈戦前〉の思考』1994年)
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ーーこの考え方を後年さらに発展させて、「柄谷の思考の核」で示したように、例えば《共同体の中にも「交換」がある。それは贈与―お返しという互酬制である。これは相互扶助的だが、お返しに応じなければ村八分にあるというふうに、共同体の拘束が強くあり、また、排他的なものである》《ネーション(共同体)の基盤には、市場経済の浸透とともに、また、都市的な啓蒙主義とともに解体されていった農業共同体がある》(『トランスクリティーク』)とあるが、こういった柄谷の思考に依拠すれば、日本的ムラ社会は最も民主主義的なシステムのひとつである。
ムラ社会
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日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)
労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)
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例えば、ヒトラーを「民主主義的に」選んでしまった過去のトラウマをもつドイツは、いまだもって国民投票システムを否定している。
日本の民主主義制度のどこに問題があるのか
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出演者:
網谷龍介(津田塾大学学芸学部国際関係学科教授)
近藤正基(神戸大学大学院国際文化学研究科准教授)
平島健司(東京大学社会科学研究所教授)
司会者:
工藤泰志(言論NPO代表)
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工藤が有識者アンケートで「ドイツの方が日本よりも民主主義が成熟している」との見方が6割近くに上ったことを紹介しつつ、「戦後のドイツは民主主義を機能させるためにどのような取り組みをしてきたのか」と問いかけました。
これに対しまず、平島氏は「戦後のドイツはワイマール憲法時代の反省から、議会制民主主義をいかにして安定的に運営するか、という点を最も重視してきた。憲法裁判所もその一環である」と解説しました。
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一方、近藤氏は成熟度に関しては日本もドイツも変わらないとの見方を示し、「1990年代以降、ドイツでも政治、政党不信が広がってきている」と指摘しました。その背景として、「国民投票を否定したり、『5%条項』により小政党を排除した結果、国民は『自分たちの声が政治に反映されにくい』と感じている」と述べました。
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網谷氏もその見方に賛同し、「ドイツは世論に敏感に反応するような政治構造にはなっていない」と述べました。その上で、「いわゆる『68年運動』の世代が、NPOなど社会活動に参画することによって、市民社会から新たな動きを始めている」と述べ、民主主義の枠外で、社会の変容が起こっていることを紹介しました。
工藤は「そのような新しい市民の声を政治に届けるためには、5%以上の得票が可能な政党を作るしかないのか」と尋ねると、近藤氏は「ドイツではデモが非常に盛んで、政治もそれに反応するため、市民と代議制民主主義の間は完全に遮断されているわけではない」と述べました。平島氏は「小政党は連邦レベルではいきなり得票することは難しくても、州レベルであれば十分に可能だ」と指摘しました。
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このドイツがーー冒頭の柄谷の定義を受け入れるならーー、日本より民主主義的なわけがないだろう。ドイツがシリア難民を積極的に受け入れたのは、「異質なものを排除する」大衆の意志に反して、である。
ハイデガーはヒトラーを支持した演説で、自由を否定し民主主義を顕揚した。
ソクラテスあるいはデカルト以後の「真理」観を批判し、古代ギリシャにおいて「真理」は存在の「隠れ無さ」であると言った、ハイデッガーはつぎのように演説している。
ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。 ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただ し党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくてむしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそうしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろうとしているのは他でもない、自分自身の未来なのである。(ハイデガー 「アドルフ・ヒットラ~と国家社会主義体制を支持する演説」1933年)
これは、深遠な形而上学がどのような政治とつながるかを端的に示している。ハイデッガーにとっては、指導者を「選ぶ」といった自由主義的原理そのものが否定されなければならないのであり、真の「自由」は喝采によって決断を表明することにある。そのときのみ、「民族の全体」の「本来の在り様」としての真理があらわれる、というのである。表象representationとしての真理観を否定することは、議会(=代表制representation)を否定することに導かれる。(柄谷行人『終焉をめぐって』)
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カール・シュミットが言ったように、《ファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》(『現代議会主義の精神史的位置』)のである。
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ところでアドルノはこう言っている。
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批判はすべての民主主義にとって本質的である。民主主義は批判への自由だけでなく、批判的衝動を要求する。民主主義はまさに批判によって定義されるのだ。
Kritik ist aller Demokratie wesentlich. Nicht nur verlangt Demokratie Freiheit zur Kritik und bedarf kritischer Impulse. Sie wird durch Kritik geradezu definiert. (アドルノ、Kulturkritik und Gesellschaft, 1955年)
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だが、こういった文をナイーヴに受け取って、反対意見を「非難」することが批判であると捉えてはならないだろう。とくに巷間での日本的批判は多くの場合、ムラ社会的排除にすぎないように見える。
なにはともあれ「一国」民主主義、愛国的民主主義は今回のコロナ禍であまりにもあきらかになったように、どの国でも排除の論理が作用する。では世界民主主義はなどというものはあるのか、ーーこれは別名、コミュニズムと呼ばれる。多くの方がオキライだろうかつてのコミュニズムは「一国」社会主義にすぎない。
例えばアドルノの朋友ホルクハイマー、彼は当時、ナチスに追われ米国で教鞭をとっていたが、1939年にこう言った。
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資本主義について批判的に語りたくない者はファシズムについても沈黙すべきである。Wer aber vom Kapitalismus nicht reden will, sollte auch vom Faschismus schweigen." (マックス・ホルクハイマー Max Horkheimer「ユダヤ人とヨーロッパ Die Juden und Europa.」1939年)
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ーーわたくしはこう言おう、資本主義について批判的に語りたくない者は民主主義についても沈黙すべきである、と。
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国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制についてじっくり検討することができる。(ノーム・チョムスキーNoam Chomsky, “Necessary Illusions”)
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柄谷のボロメオの環モデルの「共同体」の箇所に「民主主義」あるいは「大衆」(日本ならムラ社会)を代入して眺めれば、3つの環は互いに重なり合っているのである。
イラクこの図は、ジジェクなら、共同体=イデオロギー、国家=ヘゲモニー、資本=ヘゲモニーとなるが、当然ながら柄谷と相同的である。
イラクへの攻撃の三つの「真の」理由(①西洋のデモクラシーへのイデオロギー的信念、②新しい世界秩序における米国のヘゲモニーの主張、③石油という経済的利益)は、パララックスとして扱わねばならない。どれか一つが他の二つの真理ではない。「真理」はむしろ三つのあいだの視野のシフト自体である。それらはISR(想像界・象徴界・現実界)のボロメオの環のように互いに関係している。民主主義的イデオロギーの想像界、政治的ヘゲモニーの象徴界、エコノミーの現実界である。. (Zizek, Iraq: The Borrowed Kettle, 2004)
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そしてツイッターでみる限りだが、日本の政治学者や社会学者はあまりにも資本=経済に弱く、到底まともには受け入れられない。これは最近評判が高いらしい、環境問題ばかりに拘泥している若いマルクス主義者であってさえそうである。
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「批判」についてもういくらか記しておこう。たとえばカント的な批判とは超越論的な批判であり、それは何よりもまず「自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかける」(柄谷『闘争のエチカ』1988年)のことである。これはジジェクなどもくどいほど繰り返している。
ここでの文脈でいえば、民主主義という空虚なシニフィアンを至高の善として受け入れて他者を批判するのでなく、すぐさま衆愚に陥ってしまう民主主義の諸条件を吟味にかけることこそ「批判」である。
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カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)
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カントの哲学は超越論的――超越的とは区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。だが、哲学とはその始まり以来、そのような反省的態度ではなかっただろうか。そして、哲学とは、そのような反省によって誤謬や仮象を斥けることではなかっただろうか。では、どこにおいて、カントが違っているのか。カント以前においては、仮象は感覚にもとづくものであり、それを正すのが理性であると考えられていた。では、どこにおいて、カントが違っているのか。カント以前においては、仮象は感性にもとづくものであり、それを正すのが理性であると考えられていた。しかるに、カントが問題にしたのは、理性自身の欲動によって生まれ、したがって、たんなる反省によってはとりのぞけないような仮象、すなわち、超越論的仮象である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
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以下、付記的にジジェクを中心とした民主主義批判を掲げておこう。
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民主主義は敵である
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民主主義は敵である Democracy is the enemy。……
「現代における究極的な敵に与えられる名称が資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である」というバディウの主張は正しい。「デモクラシー的錯誤」。変化のための唯一の正当な手段としてデモクラシーのメカニズムを受容することこそが、資本家的関係における本物に変革を妨げる。(ジジェク 、Democracy is the enemy、2011年)
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ファシズムは民主主義的である
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シュミットによれば、独裁形態は自由主義に背反するが民主主義に背反するものではない。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。《人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置よりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明なものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである》(カール・シュミット『現代議会主義の精神史的位置』)。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
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ファシズムと同様に、ポピュリズムは、たんに資本主義を新しい方法で想像するものにすぎない。ポピュリズムは、その非情な残酷さなき資本主義・社会的な破壊効果なき資本主義を想像する新しい仕方だ。(ジジェク 、Are liberals and populists just searching for a new master? 2018)
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民主主義は資本主義システムを強化する
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ポピュリズムが起こるのは、特定の「民主主義的」諸要求(より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々)が人々のあいだで結びついた時である。(…)
ポピュリストにとって、困難の原因は、究極的には決してシステム自体ではない。そうではなく、システムを腐敗させる邪魔者である(たとえば資本主義者自体ではなく財政的不正操作)。ポピュリストは構造自体に刻印されている致命的亀裂ではなく、構造内部でその役割を正しく演じていない要素に反応する。(ジジェク「ポピュリズムの誘惑に対抗してAgainst the Populist Temptation」2006年)
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資本主義社会では、主観的暴力(犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2007年)
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要するに、(ポピュリストたちの)「善い」選択自体が、支配的イデオロギー(資本主義)を強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の抑圧と奴隷へと導く。(Levi R. Bryant, Žižek's New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist, 2008)
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