前回に引き続くが、柄谷-カントの哲学篇である(そこにいくらかフロイトラカンの精神分析篇にて補う)。
表題を「カントの超越論的仮象とラカン のサントーム」としたが、まずその前に柄谷による「物自体、現象、仮象」あるいは「物自体、形式、仮象」とラカンの「現実界、象徴界、想像界」の結びつけの記述を掲げる。
表題を「カントの超越論的仮象とラカン のサントーム」としたが、まずその前に柄谷による「物自体、現象、仮象」あるいは「物自体、形式、仮象」とラカンの「現実界、象徴界、想像界」の結びつけの記述を掲げる。
物自体、現象、仮象
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カントは、主観の形式によって構成されるものを「現象」と呼び、たえず主観を触発しつつありながら、主観によってはとらえられないものを「物自体」と呼んでいる。さらにつけ加えるべきなのは、「仮象」である。ここで注意すべきなのは、「現象」と「物自体」は、ドクサ(仮象)とエピステメー(真の認識)という旧来の区別とは異なるということである。たとえば、科学的認識がとらえるのは「現象」である。それは物自体ではないとしても仮象ではない。つまり、大事なのは、「現象」と「仮象」が区別されなければならないということである。カント以前の哲学者は、仮象が感覚にもとづくがゆえに生じる、ゆえに、感覚を越えた理性による認識が真であると考えてきた。カントが画期的なのは、仮象をもたらすのは感覚だけではない、ある種の仮象が理性そのものによって生み出されると考えたところにある。彼の仕事は、そのような理性を批判(吟味)することであった。しかし、それは、人がそのような仮象を容易に取り除けるということを意味するのではない。むしろ、その逆である。たとえば、自分(自己同一性)という考えは仮象である。とはいえ、もし自分というものがないとしたら、人は恐るべき心理状態に陥るだろう。カントはそのような仮象を超越論的仮象と呼んだ。
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このように、物自体、現象、仮象という三つの概念は、一組の構造をなしている。つまり、そのどれかを捨てても根本的に意味が失われるのである。もちろん、われわれもこの古くさい「物自体」という言葉を廃棄してもよい。が、これらの構造だけは手放すわけにはいかない。たとえば、精神分析において、ラカンが定立した、「現実的なもの」・「象徴的なもの」・「想像的なもの」という区別は、明瞭にカント的である。このように、物自体、現象、仮象という三つの 概念が別の言葉でも言い換えられるということは、それらが超越論的に見出される一つの「構造」であること、カントの言葉でいえば、アーキテクトニック(建築術)であることを意味する。カント自身が、それを隠喩として語った。(柄谷行人「英語版への序文」『隠喩としての建築』1995年)
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仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)
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フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。
そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』P59)
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形式(象徴的なもの)=言語
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カントは、『純粋理性批判』における新たな企てを「コペルニクス的転回」と呼んだ。この比喩は、それまでの形而上学が、主観が外的な対象を「模写」すると考えていたのに対して、「対象」を、主観が外界に「投げ入れ」た形式によって「構成」するというふうに逆転したことを意味している。(『トランスクリティーク』P52)
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カントが主観の能動性として考えていたのは、実際には言語の問題である。彼が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシーラーによって「象徴形式」といいかえられている。(『トランスクリティーク』P101)
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ラカンは次のように言っているが、ほぼ上の図の用語に当てはまる。
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)
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想像界は象徴界によって構造化されている(ラカン、S2、29 Juin 1955、摘要)
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自我は想像界の効果である。Le moi, c'est un effet imaginaire.(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)
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フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
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(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
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(自我に対する)エスの優越性primauté du Esは、現在まったく忘れられている。…我々の経験におけるこの洞察の根源的特質、ーー私はこのエスの参照領域 une certaine zone référentielleをモノ la Chose と呼んでいる。(ラカン、S7, 03 Février 1960)
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もっとも上の図ははあくまで仮に置いていたものであり、厳密にはラカンの思考とはいくらか異なる。むしろフロイトの思考を大幅に取り入れたフロイトラカン混淆版ボロメオの環である。
こういった厳密さの不備はあるにもかかわらず、概略としては次のようにおけると私は思う。
柄谷行人は「憲法超自我論」をみる限り、自我理想と超自我の区別が出来ていないがーーフロイト自身、曖昧な記述があるのでやむえないがーー、現在のラカン派はこの二つを厳密に区別している。
我々は I(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、象徴的同一化 identification symbolique におけるI(A)、つまり自我理想 idéal du moi は主体と大他者との関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能 pas du tout pacifique がある。そしてこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)
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なお柄谷は『トランスクリティーク』において、想像界(仮象)を「共同体」ともしているが、『探求』の段階では自己は共同体だと言っている。
誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。共同体の外と間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。(柄谷行人『探求Ⅱ』)
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………
ところでカントの超越論的主観である。もし柄谷=カントのボロメオの環を受けいれるなら、どのポジションにおけばよいのだろう(わたくしはカント自体にはまったく詳しくないことを先に強調しておかねばならない)。
超越論的主観=X [das transzendentale Subjekt =x]
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思惟するこの自我、あるいは彼、あるいはそれ(物)によって表象されるのは、もろもろの思考の超越論的主観=X [das transzendentale Subjekt =x] に他ならない。この超越論的主観は自らの述語である思考によってのみ認識される。またこの超越論的主観については単独には我々は決していささかの概念も持ち得ない。だから、我々はこの主観をめぐって絶えざる循環のうちをさ迷わねばならい。というのも、この超越論的主観について何かあることを判断するためには、我々はつねにすでにこの超越論的主観の表象を用いなければならないからである。これが、自我の表象から分かちえない不都合さである。(カント『純粋理性批判』岩波版全集)
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柄谷はカントのこの超越論的主観(あるいは超越論的仮象)を、仮象、現象、物自体を統合する機能として扱っているように見える。
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カントは……、自己は仮象であるが、超越論的統覚Xがあるといった。このXを何らかの実体にしてしまうのが、形而上学である。とはいえ、われわれは、そのようなXを経験的な実体としてとらえようとする欲動から逃れることはできない。したがって、自己とは、たんなる仮象ではなく、超越論的な仮象である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年版、P24)
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デカルトは、「思う」をあらゆる行為の基底に見出す。《それでは私は何であるのか。思惟するものである。思惟するものとは何か。むろん、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲しない、また想像し、そして感覚するものである》(『省察』)。このような思考主体は、カントによれば、「思考作用の超越論的主観すなわち統覚X」である。私はこのような言い方を好まないが、カントのいう「超越論的主観X」とは、いわば「超越論的主観〔「主観」に×印を上書きする〕」である。それはけっして表象されない統覚であって、それが「在る」というデカルトの考えは誤謬である。しかし、デカルトのコギトには、「私は疑う」と「私は思う」という両義性がつきまとっており、しかもそれらは超越論的自我について語るかぎり避け難いものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P132)
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アソシエーションは(…)、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。(柄谷行人『トランスクリティーク』P283)
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2007年の長池講義録からも引こう。
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2 現象と仮象
カントが否定的に見ているのは、仮象(Schein)である。仮象は現象(Erscheinung)と違って、感性的な直観にもとづかない。ただ、考えられただけのものだ。考えられただけのもの(例えば神)が、実際に「存在する」というためには、(感性的)直観を通さなければならない。
通常、仮象は、理性によって取り除くことができる。古来、哲学は、感覚にもとづくドクサと、理性にもとづくエピステーメーを区別してきた。同様に、カントに先行する啓蒙主義者は、理性にもとづいてさまざまな仮象を批判した。しかし、カントは、彼は、感性だけでなく、理性もまた仮象をもたらすと考えたのである。それが形而上学である。
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感覚によってもたらされる仮象は、理性によって訂正される。しかし、理性によってもたらされる仮象は、理性によっては是正されない。そもそも、それは理性が必要とするものであるから。カントは、理性がどうしてもさけられない仮象を、「超越論的仮象」と呼んだ。自由、神、魂の不死などがそれである。
例:超越論的仮象としての自己。デカルトの「スム:我在り」は、「同一の自己がある」ということを意味する。それに対して、ヒュームは、同一の自己などは仮象である、という。たとえば、前日の自分と今の自分とは違う。自己同一性などない。しかし、同一の自己という幻想がなくなると、実際に、深刻な病気(統合失調症)になる。自分という仮象は、生きていくために不可欠なのだ。さらに、社会的に、同一の自己がないと、行為に対して責任をとることができないということになる。ゆえに、同一の自己は仮象であっても、取りのぞけないような仮象、つまり、超越論的仮象である。
カントもまた啓蒙主義者である。しかし、彼は啓蒙主義そのものを批判する啓蒙主義者、いわば、永続的啓蒙主義者であった。
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3 統整的理念(理性の統整的使用)と構成的理念(理性の構成的使用)
カントは、ある種の超越論的仮象は、実践的に有益であり、不可欠だと考えた。その場合、彼はそのような仮象を「理念」と呼んだ。ゆえに、理念とは、そもそも、仮象である。
例:詰め碁や詰め将棋では、実戦でならば解けないような問題が解ける。それは詰むということがわかっているからだ。サイバネティックスの創始者ウィーナーは、自ら参加したマンハッタン・プロジェクトで原爆を作ったあと、厳重な情報管理をしたという。それは原爆の作り方を秘密にすることではない。原爆を作ったということを秘密にすることだ。作れるということがわかれば、ドイツでも日本でもすぐにできてしまうからだ。いわば、原爆の作り方が構成的理念だとしたら、原爆を必ず作れるという考えが統整的理念である。
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ある理想やデザインによって社会を強引に構成するような場合、それは理性の構成的使用であり、そのような理念は構成的理念である。しかし、現在の社会(資本=ネーション=国家)を超えてあるものを想定することは、理性の統整的使用であり、そのような理念は統整的理念である。仮象であるにもかかわらず、有益且つ不可欠なのは、統整的理念である。(第一回 長池講義 講義録 柄谷行人 2007/11/7)
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ラカン のサントームΣは二種類の意味があるが(参照)、その一つは象徴界、想像界、現実界の統合機能であり、これは柄谷のいう超越論的仮象と同じ機能を持っている。
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私がサントームΣとして定義したものは、象徴界、想像界、現実界を一つにまとめることを可能にするものである j'ai défini comme le sinthome [ Σ ], à savoir le quelque chose qui permet au Symbolique, à l'Imaginaire et au Réel, de continuer de tenir ensemble。…サントームの水準でのみ…関係がある…サントームがあるところにのみ関係がある。… Au niveau du sinthome, … il y a rapport. … Il n'y a rapport que là où il y a sinthome (ラカン, S23, 17 Février 1976)
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以上、当面、次のポジションに超越論的仮象を置いておくことにする。
柄谷は長池講義で《カントは、理性がどうしてもさけられない仮象を、「超越論的仮象」と呼んだ。自由、神、魂の不死などがそれである》と言っていることを再度強調しておこう。
最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、L'Autre sans Autre、2013)
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ここでのミレール発言はいくらか誤解を招きやすいので、英語圏においてサントームを問い続けている代表者のひとりThomas Svolosにて補っておこう。
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は単に特別安定した結び目の形式にすぎない。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008)
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さて柄谷のいう「統整的理念(理性の統整的使用)と構成的理念(理性の構成的使用)」、つまり
ある理想やデザインによって社会を強引に構成するような場合、それは理性の構成的使用であり、そのような理念は構成的理念である。しかし、現在の社会(資本=ネーション=国家)を超えてあるものを想定することは、理性の統整的使用であり、そのような理念は統整的理念である。仮象であるにもかかわらず、有益且つ不可欠なのは、統整的理念である。(第一回 長池講義 講義録 柄谷行人 2007年)
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ーーこの文は、ラカン の次の発言とともに読むべきである。
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人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
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柄谷はこの統整的理念に相当するものをトラクリでは、「アソシエーションのアソシエーション」(可能なるコミュニズム)と呼んだ。
その後「世界共和国」「帝国の原理」とも呼んでいる。
一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
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僕はよくいうんですが、カントが理念を、二つに分けたことが大事だと思います。彼は、構成的理念と統整的理念を、あるいは理性の構成的使用と理性の統整的使用を区別した。構成的理念とは、それによって現実に創りあげるような理念だと考えて下さい。たとえば、未来社会を設計してそれを実現する。通常、理念と呼ばれているのは、構成的理念ですね。それに対して、統整的理念というのは、けっして実現できないけれども、絶えずそれを目標として、徐々にそれに近づこうとするようなものです。カントが、「目的の国」とか「世界共和国」と呼んだものは、そのような統整的理念です。
僕はマルクスにおけるコミュニズムを、そのような統整的理念だと考えています。しかし、ロシア革命以後とくにそうですが、コミュニズムを、人間が理性的に設計し構築する社会だと考えるようになりました。それは、「構成的理念」としてのコミュニズムです。それは「理性の構成的使用」です。つまり、「理性の暴力」になる。だから、ポストモダンの哲学者は、理性の批判、理念の批判を叫んだわけです。
しかし、それは「統整的理念」とは別です。マルクスが構成的理念の類を嫌ったことは明らかです。未来について語る者は反動的だ、といっているほどですから。ただ、彼が統整的理念としての共産主義をキープしたことはまちがいないのです。それはどういうものか。たとえば、「階級が無い社会」といっても、別にまちがいではないと思います。しかし、もっと厳密にいうと、第一に、労働力商品(賃労働)がない社会、第二に、国家がない社会です。(柄谷行人「生活クラブとの対話」)
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帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
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近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)
帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)
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………
・・・とはいえ、ラカンは最終的には次のように言って死んでいったことを最後に付け加えておかねばならない。
想像界、象徴界、現実界を支えるものなど何もない
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ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もないから。私が言っていることの本質は、性関係はないということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ。
La métaphore du nœud borroméen à l'état le plus simple est impropre. C'est un abus de métaphore, parce qu'en réalité il n'y a pas de chose qui supporte l'imaginaire, le symbolique et le réel. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel c'est ce qui est l'essentiel de ce que j'énonce. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel parce qu'il y a un imaginaire, un symbolique et un réel, c'est ce que je n'ai pas osé dire. Je l'ai quand même dit. Il est bien évident que j'ai eu tort mais je m'y suis laissé glisser.(ラカン, S26, La topologie et le temps, 9 janvier 1979)
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