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2021年1月30日土曜日

野蛮人と農民と田舎者


自分のやる事をあらゆる角度から徹底的に研究するのは、野蛮人と農民と田舎者だけである。それゆえ、彼らが思考から事実に到るとき、その仕事は完全無欠である。 Il n'y a rien au monde que les Sauvages, les paysans et les gens de province pour étudier à fond leurs affaires dans tous les sens ; aussi, quand ils arrivent de la Pensée au Fait, trouvez-vous les choses complètes. (H・ド・バルザック「骨董屋」)


と構造主義の始祖レヴィ=ストロースの『野生の思考』のエピグラフにある。野蛮人と農民と田舎者は、通念としては経験論者の筈だが、経験主義を徹底させたら構造主義に反転するのだろうか。


要素自体はけっして内在的に意味をもつものではない。意味は「位置によって de position 」きまるのである。それは、一方で歴史と文化的コンテキストの、他方でそれらの要素が参加している体系の構造の関数である(それらに応じて変化する)。(レヴィ=ストロース『野性の思考』1962年)


自らの置かれたポジションを疑うまでになれば、経験論者は構造主義者になりうるのだろうよ。


私は仕事のための場をふたつもっている。ひとつはパリに、そしてもうひとつはいなかに。二ヶ所に、共通の品物はひとつもない。何ひとつとして運んだことがないからだ。それにもかかわらず、これらふたつの場所は同一性をもっている。なぜか? 用具類(用紙、ペン、机、振子時計、灰皿)の配置が同じだからである。空間の同一性を成立させるのはその構造なのだ。この私的な現象を見ただけでも十分に、構造主義というものがはっきりわかるだろう。すなわち、体系は事物の存在より重要である、ということだ。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)


レヴィ=ストロースは別に自伝『悲しき熱帯』で、「私の二人の師」として、マルクスとフロイトを挙げている。ラカンの言説-社会関係理論は、フロイトをさらに構造化して四つの場(空箱)に四つの要素を入れるというものだ。






いまさら構造主義でもあるまいと言う人もいるだろうが、日本には不徹底な経験論者ばかりが跳梁跋扈しているのは確かだ。


『資本論』が考察するのは…関係の構造であり、それはその場に置かれた人々の意識にとってどう映ってみえようと存在するのである。

こうした構造主義的な見方は不可欠である。マルクスは安直なかたちで資本主義の道徳的非難をしなかった。むしろそこにこそ、マルクスの倫理学を見るべきである。資本家も労働者もそこでは主体ではなく、いわば彼らがおかれる場によって規定されている。しかし、このような見方は、読者を途方にくれさせる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


どうだい、そこのきみ。つごうよく自らを正当化ばかりしてないでさ。少しは自らを「途方に暮れさせる」思考法を身につけたら? 


場に置かれたら、《彼らはそれを知らないが、そうする Sie wissen das nicht, aber sie tun es》(マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)のさ。ボクも海外在で、日本人の生態を客観的に観察するーーあるいはバカにするーー「田舎者の」場に置かれてるんだけどさ。


万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)


ま、誰もが実は難しいんだが。レヴィ=ストロースでさえ晩年はメタレイシズムに陥ってしまったのだし。


でも最低限、超越論的批評は欠かせないよ。


カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)