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2021年1月25日月曜日

人間の顔をしたルペン主義

 

フランスではマリーヌ・ル・ペンに投票したのはとりわけかつての社会主義者たちです。労働者階級は言うわけです。「オーケー、あいつらは我々にではなく、移民のことにしか興味が無いんだな」と。In Frankreich wird Marine Le Pen vor allem von Ex-Wählern der Sozialisten gewählt. Die Arbeiterklasse sagt sich: Okay, die interessieren sich nur für Migranten, nicht für uns.(シャンタル・ムフ、インタビュー「中道体制の崩壊」2015)



マリーヌの父ジャン=マリ・ルペンは、アルジェリアでの解放戦線に対する拷問のプロだったと言われる。その彼が、フランス本国で国民戦線のリーダーになり、イスラムの移民がわれわれフランス人から職を奪っている等と言って、ナショナリズムを煽りつづけた。2011年にジャン=マリは引退し、三女のマリーヌが引き継いだ。






以下に引用するジジェクのル・ペンは15年ほど前の記事、つまり父マリのほうの話にかかわるが、マリは「共和国の悪魔」と呼ばれるのを好んだ人物であり、他方、娘のマリーヌは「脱悪魔化」などにて、よりいっそうの票を獲得しようとする戦略をとっているようだ。



来年(2022年)の仏大統領選はさてどうなるのか。もちろん極右政党の躍進はフランスだけの問題ではないが。


フランスはドイツやイギリスよりはるかに悪い。〔・・・〕仏のナショナリズム、フランス人は(自由、平等、友愛の理念を実現した)唯一のデモクラシー的平等主義の国だという自負そのものが、ナショナリズムや愛国心を生み、他国、他民族を蔑視し差別するメカニズムが働いてしまっている。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年、摘要訳)






私が思うに、極右が力を得ている原因の一つは、左翼が今や直接に労働者階級に自らの参照点を置くことに消極的になっていることにある。左翼は自らを労働者階級として語ることにほとんど恥を抱いており、極右が民衆の側にあると主張することを許している! 左翼がそれをするときは、民族的な参照点を用いることで自らを正当化する必要性を感じているようだ。「貧困に悩むメキシコ人」とか「移民」云々で。極右は特別のそして結束力のある役割を演じている。「民主主義者たち」の大部分の反応は見るとよい。彼らは、ル・ペンについて、受け入れがたい思想を流布する者だと言いながら、「しかし...」とことばを継ぐ。こうやって、ル・ペンが「ほんとうの問題」を提起していると言外に述べようとする。そうしてそのことによってル・ペンの提起した問題を自分たちがとりあげることを可能にする。中道リベラルは、根本的には、人間の顔をしたルペン主義だ[Le centre libéral, au fond, c'est le lepénisme à visage humain. ]。こうした右翼は、ル・ペンを必要としている。みっともない行き過ぎに対し距離をとることで自らを穏健派と見せるために。(ジジェク「資本主義の論理は自由の制限を導く」Slavoj Zizek : « La logique du capitalisme conduit à la limitation des libertés », 4 janvier 2006)


真の危険は、ヨーロッパの民族主義的右翼が実際に果たしている役割にそのいい見本を見ることができる。ある種の話題(外国の脅威、移民制限の必要性など)を持ち出すという役割である。あとはそれを保守的な政党のみならず「社会主義」政権の現実的政治さえもが静かに取り上げるのだ。今日、移民の身分を「制限」する必要性などが大方の合意となっている。


そうしたストーリーに従えば、ルペンは人々を苦しめている本当の問題を語り、それを利用したということになる。フランスにルペンがいなかったら、ルペンを作り上げる必要があった、とさえ言いたくなる。彼は憎悪の対象として愛される完璧な人物だった。彼を憎悪していれば広い意味でのリベラルな「民主勢力」の仲間であることが保証された。すなわち寛容と多様性尊重という民主主義的価値と感情的な一体感を持つことができたのだ。


しかし、「恐ろしい。なんという無知、野蛮。まったく受け入れることができない。私たちの基本的な民主主義的価値観に対する脅威」と叫んだあとで、憤慨したリベラルたちは「人間の顔をしたルペン[le Pen with a human face]」のようにふるまい始め、「しかし人種差別的な民族主義者は一般の人々の当然の懸念を巧妙に利用している。したがって私たちは何らかの方策をとらなければならない」と言って、より「文明化された」やり方で同じことを始めるのだ。


ここにあるのは一種のヘーゲル的な「否定の否定」である。最初の否定において民族主義的右翼が「外国の脅威」に対抗する議論を前面に出して過激な少数意見に声を与えることによって無菌状態のリベラルな多数意見に動揺を与える。第二の否定においては、「上品な」民主主義的中道が、この民族主義的右翼の意見を哀れむように却下するジェスチャーを示しながら、同じメッセージを「文明化された」やり方で取り込むのである。


背景となる「不文律」の全体が両者の間ですっかり変わってしまっているために、誰もそれに気が付かず、誰もが反民主主義的な脅威が去ったと思って安堵する。そして真の危険は、同様のことが「対テロ戦争」に関して起きるのではないかということだ。ジョン・アシュクロフトのような過激派は見捨てられるだろうが、彼らの遺産が残り、私たちの社会の目に見えない倫理的織物の中に知覚できない形で編みこまれるのだ。彼らの敗北は究極的には彼らの勝利となる。彼らの存在はもはや必要がなくなる。なぜなら彼らのメッセージは世論の主流に組み込まれるのだから。ジジェク 「イラク戦争:真の危険はどこにあるのか?」THE IRAQ WAR: WHERE IS THE TRUE DANGER? , 2003年)



………………



※付記:メタレイシズム


◆「スラヴォイ・ジジェクとの対話1993」『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(浅田彰)所収より

ジジェク)もちろん、一九九二年に旧東独のロストクで起こったネオ・ナチによる難民収容施設の焼き討ちのような事件そのものは、昔から何度も繰り返されてきた野蛮な暴力行為にすぎない。しかし、問題はそれが一般大衆にどう受けとめられるかです。カントは、フランス革命の世界史的意味は、パリの路上での血なまぐさい暴力行為にではなく、それが全ヨーロッパの啓蒙された公衆の内に引き起こした自由の熱狂にあるのだと言っている。それと同じように、今回も、それ自体としてはおぞましいネオ・ナチの暴力行為が、ドイツのサイレント・マジョリティの承認とは言わぬまでも暗黙の「理解」を得たことが問題なのです。実際、社会民主党の幹部の中でさえ、こうした事件を口実にドイツのリベラルな難民受け入れ政策の再検討を提唱する人たちが出てきている。こういう時代の空気の変化の中にこそ、「外国人」を国民的アイデンティティへの脅威とみなすイデオロギーがヘゲモニーをとる危険を見て取るべきだと思うのです。


厄介なのは、こうして広がりはじめた新しいレイシズムが、リベラルな外見、むしろレイシズムに反対するかのような外見を取り得るということです。この点で有効なのがエチエンヌ・バリバールの「メタ・レイシズム」(メタ人種差別)という概念だと思うのですが、どうでしょうか。


浅田)……伝統的なレイシズムは、自民族を上位に置き、ユダヤ人ならユダヤ人を下位の存在として排除する。たとえば、クロード・レヴィ=ストロースの構造人類学は、どの民族の文化も固有の意味をもった構造であり、そのかぎりで等価である、という立場から、そのような自民族中心主義、とりわけヨーロッパ中心主義を批判した。


そのレヴィ=ストロースが、最近では、さまざまな文化の混合は人類の知的キャパシティを縮小させ、種としての生存能力さえ低めることになりかねないから、さまざまな文化の間の距離を維持して、全体としての多様性を保つべきだと、しきりに強調する。つまるところは、フランスはフランス、日本は日本の伝統文化を大切にしよう、というわけです。


もちろん、人類学者がエキゾティックな文化の保存を訴えるのは、博物学者が珍しい種の保存を訴えるのと同じことで、それらがなくなればかれらは失業してしまいますからね(笑)。


しかも、こういう見方からすると、文化的な差異を一元化しようとする試みは「自然」な反発を引き起こし、人種的・民族的な紛争を引き起こしかねないということになる。つまり、すべての人間の同等性を強調する抽象的な反レイシズムは、実はレイシズムを煽り立てるばかりなのであり、レイシズムを避けたかったら、そういう抽象的な反レイシズムを避けなければならない、というわけです。


これが、レイシズムと抽象的な反レイシズムの対立を超えた真の反レイシズムであると称するメタ・レイシズムですね。


ジジェク)そう、このメタ・レイシズムこそ、移民が中心的問題となるポスト植民地時代固有の、いわばポストモダンなレイシズムだと言えるでしょう。


メタ・レイシストはたとえばロストク事件にどう反応するか。もちろんかれらはまずネオ・ナチの暴力への反発を表明する。しかし、それにすぐ付け加えて、このような事件は、それ自体としては嘆かわしいものであるにせよ、それを生み出した文脈において理解されるべきものだと言う。それは、個人の生活に意味を与える民族共同体への帰属感が今日の世界において失われてしまったという真の問題の、倒錯した表現にすぎない、というわけです。


つまるところ、本当に悪いのは、「多文化主義」の名のもとに民族を混ぜ合わせ、それによって民族共同体の「自然」な自己防衛機構を発動させてしまう、コスモポリタンな普遍主義者だということになるのです。こうして、アパルヘイト(人種隔離政策)が、究極の反レイシズムとして、人種間の緊張と紛争を防止する努力として、正当化されるのです。


ここに、「メタ言語は存在しない」というラカンのテーゼの応用例を見て取ることができます。メタ・レイシズムのレイシズムに対する距離は空無であり、メタ・レイシズムとは単純かつ純粋なレイシズムなのです。それは、反レイシズムを装い、レイシズム政策をレイシズムと戦う手段と称して擁護する点において、いっそう危険なものと言えるでしょう。


先に私は旧ユーゴスラヴィアの紛争に対する欧米の一見中立的な態度を批判し、性急にどちらかの側につく前にこの地域に古くから根ざした人種的・民族的・宗教的差異を深く理解しなければならないといった、傍観者のような民俗学的中立性こそが、紛争の永続化と拡大の条件になっていると指摘しましたが、その背後にも同じ論理があります。それが、旧ユーゴスラヴィアに関しては外的に、ドイツの難民問題に関しては内的に現れているのです。


浅田)一見リベラルな多元主義がその反対の結果を生み出してしまうとしたら、皮肉と言うほかありませんね。それは、言い換えれば、「歴史以後」の平衡状態に達したはずの自由主義のシステムが、その内部から新たな変動要因を生み出してしまうということでもあるでしょう。……(『SAPIO』1993.3 初出)



……………



権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。Authority implies an obedience in which men retain their freedom(ハンナ・アーレント『権威とは何か』1954年)


ラカンは学園紛争を契機にエディプス的父の失墜を言った。


父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)

エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! 」と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)


この文脈のなかで《レイシズム勃興の予言 prophétiser la montée du racisme》(Lacan, AE534, 1973)をした。


享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)

ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると。Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet(J.-A. Miller, Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre, 2007)



エディプス的父の名の機能は、悪い面も良い面もある。悪い面は、支配の論理・抑圧の論理に陥りがちな傾向をもつ相である。良い面は、身体のリアルにかかわる享楽を飼い馴らすファルスの意味作用(言語による欲動の身体の減圧化)の相である。


ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987