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2021年1月25日月曜日

現在の左翼は「人間の顔をした世界資本主義者」に過ぎない

まず 「私は左翼を信用しない」の冒頭に引用した文を再掲しよう。


左翼はひどく悲劇的状況にある。…彼らは言う、「資本主義は限界だ。われわれは新しい何かを見出さねばならない」と。だがあれら左翼連中はほんとうに代案のヴィジョンをもっているのか? 左翼が主として語っていることは、人間の顔をした世界資本主義[global capitalism with a human face]に過ぎない。…私は左翼を信用していない[I don't trust leftists ](Slavoj Žižek interview: “Trump created a crack in the liberal centrist hegemony” 9 JANUARY 2019)




このジジェクの主張は、次のような政治経済的な歴史の捉え方の文脈のなかにある。


もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)





かつては世界資本主義に対抗するシステムは間違いなくこの三つの選択肢だった。民主主義は? と言う人もいるだろうから、次のように引用しておこう。



◼️ファシズムと民主主義

民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)



この柄谷はナチスの天才的理論家カール・シュミットにある。


ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった。Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen, (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)

民主主義が独裁への決定的対立物ではまったくないのと同様、独裁は民主主義の決定的な対立物ではまったくない。Diktatur ist ebensowenig der entscheidende Gegensatz zu Demokratie wie Demokratie der zu Diktatur.“ (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1926年版)

民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異邦人や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)




結局、かつてと同様、現在も事実上、三つの選択肢しかないのではないか。たとえばラディカルデモクラシーなどと言っている政治学者がいることを知らないわけではないが、寝言にしか見えない。


ここで浅田彰と中井久夫で補っておこう。


浅田:資本主義がなぜこうしてサヴァイヴしえたかと言えば、社会主義なりファシズムなりと対立しつつ学習したからです。ケインズにしても、社会主義に勝つためには政府介入とセーフティ・ネットが必要であると言い、それを実践した。日本でも、マルクスを体系化した宇野経済学を学び、資本主義の矛盾を熟知した官僚や政治家、あるいは経営者たちが、そういうことをやってきた。資本主義というのはたえず危機をはらんだシステムであり、蓮實さんの言われる本当の資本家というのは、敵と闘いながら学ぶべきは学んで自己修正し危機管理にあたる人なんですね。(「対談「「空白の時代」以後の二〇年」蓮實重彦+浅田彰、中央公論2010年1月号)


ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。


今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。(中井久夫「私の「今」」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)



浅田も、そして中井久夫はより鮮明に、社会保障やセーフティ・ネットの実践としてのケインズ主義があり得たのは、共産主義があったせいで、1989年の「マルクスの死」以後は、「むき出しの市場原理」、つまり世界資本主義が露呈したと言っている。これは1990年以降の30年の歴史を振り返れば明らかだろう。1990年以降の柄谷行人が繰り返しているのも事実上これである。


今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009年)

M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 》(マルクス『資本論』第三巻第二十四節)である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)



話を戻せば、中井の文になかにはケインズ主義自体、「人間の顔をした社会主義」の反映的相があるともあった。これは、ジジェクがラカンの「眼差し」概念を使い言っている内容と事実上等価である。



私の興味をひいたのは、東側と西側が相互に「魅入られる」ということでした。これは「幻想」の構造です。ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「まなざし」自体なのです。西側を魅惑したのは、正統的な民主主義の勃発なのではなく、西側に向けられた東側の「まなざし」なのです。この考え方というのは、私たちの民主主義は腐敗しており、もはや民主主義への熱狂は持っていないのにもかかわらず、私たちの外部にはいまだ私たちに向けて視線をやり、私たちを讃美し、私たちのようになりたいと願う人びとがいる、ということです。すなわち私たちは私たち自身を信じていないにもかかわらず、私たちの外部にはまだ私たちを信じている人たちがいるということなのです。西側における政治的な階級にある人びと、あるいはより広く公衆においてさえ、究極的に魅惑されたことは、西に向けられた東の魅惑された「まなざし」だったのです。これが幻想の構造なのです、すなわち「まなざし」それ自体ということです。そして東側に魅惑された西側だけではなく、西側に魅惑された東側もあったのです。だから私たちには二重の密接な関係があるのです。(Conversations with Žižek, with Glyn Daly 2004)


現在、この東西の眼差しがなくなってしまって、世界資本主義という非イデオロギー的イデオロギーの世界に我々は生きている。


ここでふたたび浅田を引こう。


浅田彰)資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかないーーこのように資本主義的なシニシズムと新カント派的なモラリズムがペアになって、現在の支配的なイデオロギーを構成しているのではないかと思うんです。(「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」シンポジウム 2000.11.17ーー浅田彰・柄谷行人・坂本龍一・山城むつみ『NAM生成』所収)


ーー浅田彰は「セイフティ・ネット」等による社会民主主義をバカにしているが、なぜだろう。シンポジウムでさらりと発言された言葉なのでその内実は定かではないが、社会保障に代表される「セイフティ・ネット」が可能になるのは、一定の条件がある。最も重要なのは年齢別人口構成比ではないか。






世界人口はひどく高齢化している。この帰結は何か?


たとえばジジェク はこう言っている。


一つのことが明らかになっている。それは、福祉国家を数十年にわたって享受した後の現在、〔・・・〕我々はある種の経済的非常事態が半永久的なものとなり、我々の生活様式にとって常態になった時代に突入した、という事実である。こうした事態は、給付の削減、医療や教育といったサービスの逓減、そしてこれまで以上に不安定な雇用といった、より残酷な緊縮策の脅威とともに、到来している。〔・・・〕


現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは馬鹿げている。いまだ現在のシステムが維持可能だと考えている者たちはユートピアン(夢見る人)にすぎない。(ZIZEK, A PERMANENT ECONOMIC EMERGENCY、2010年)



福祉国家あるいはケインズ主義はもはやムリだーーこれはジジェク がこう言っているのであり、各人その正否を判断したらよろしい。


とはいえ、世界でもこの老齢化の傾向があるのだから、世界一の少子高齢化国日本で、「既存システム内での」福祉国家の存続がありえる筈がない、と私は考えている。





見ての通り、65歳人口を15〜64歳で支える割合は、1970年の9.8, 1980年の7.4. 1990年の5.8、2000年の 3.9、2010年の2.8、2020年の2.0となっている。そして20年後の2040年には、1.5だ。15〜64歳がすべて労働人口になるわけではなく、仮に65歳以上を年金支給年齢に設定したままなら、事実上マンツーマンで支えなければならない。年金支給年齢を70歳以上にしてもムリだ(参照)。要するにシステムを変えずに年金以外も含めてのセイフティネットを維持しようなどというのは、ジジェク の言う通り、たんに夢を見ているだけである。


何よりもまず私には、現在のリベラル左翼の殆どにおいてこの相の問いがいまだ前面に出ていないのはーー少なくとそのように見えるーー信じられない。日本共産党やら立憲民主党やらの政党も同様。「民主的に」ーー大衆迎合的にーー既存システム内での問題しか問うてないように見える。


ジジェクの言う「左翼は人間の顔をした世界資本主義に過ぎない」とは次のような意味も包含しており、中身を知れば別に過激でも何でもなく、本質的できわめて正当的な主張であると私は思う。



ポピュリズムが起こるのは、特定の「民主主義的」諸要求(より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々)が人々のあいだで結びついた時である。〔・・・〕


ポピュリストにとって、困難の原因は、究極的には決してシステム自体ではない。そうではなく、システムを腐敗させる邪魔者である(たとえば資本主義者自体ではなく財政的不正操作)。ポピュリストは構造自体に刻印されている致命的亀裂ではなく、構造内部でその役割を正しく演じていない要素に反応する。(ジジェク「ポピュリズムの誘惑に対抗してAgainst the Populist Temptation」2006年)

現代における究極的な敵に与えられる名称が資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である[the name of the ultimate enemy today is not capitalism, empire or exploitation, but democracy]というバディウの主張は、正しい。それは、資本主義的諸関係の根源的な変革を妨げる究極的な枠組みとして「民主的な機構」を捉えることを意味している。 (ジジェク「永遠の経済的非常事態」2010年)



………………



なお途中、ラカンの「眼差し」に触れたのでここでの話から離れて理論的補足をしておこう。






われわれが通常、"対象a"と呼ぶものは、たんに対象aの形式の支えあるいは化身に過ぎない。[Ce que nous appelons couramment « objet a » est simplement le support ou l'incarnation de la formule de l'objet a.]…


眼差しは厳密に対象aの化身である[Le regard est précisément l'incarnation de l'objet a.…


ルーベンスの『鏡を見るヴィーナス』は対象aの論理的機能に実体を与えることを可能にするブリリアントな要素を際立たせている…


対象aには、構造的省略がある。対象aは補填(穴埋め)によってのみ代表象されうる[Dans l'objet a, il s'agit d'une élision de structure, laquelle ne peut être représentée que par un supplément.]


穴としての対象aは、枠・窓と等価とすることができる[En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre]。それは鏡とは逆である。対象aは捕まえられない。特に鏡には。長いあいだ鏡像段階をめぐって時を費やしたラカンは、それを強調している。対象aは窓である。われわれが目を開くために自ら構築した窓である[Il s'agit plutôt de la fenêtre que nous constituons nous-mêmes, en ouvrant les yeux. ]


(肝腎なのは)窓を見て自らを知ることである。欲動の主体としての自己自身を。あなたは享楽している、永遠の失敗のなかを循環運動している。[voir la fenêtre et se connaître comme sujet de la pulsion, soit ce dont vous jouissez en en faisant le tour dans un sempiternel échec.](J.-A.Miller, L’image reine , 2016)



対象aは大きく言えば、穴と穴埋め[le trou et le bouchon]がある(参照)。






「欲動の主体としての自己自身を知ること」とは、穴埋めの対象aに惑わされずその底にある穴を知らねばならないということであり、ここでの話に戻せば、人は我々の時代の「資本の欲動」を知らなければならないとなる。



資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年、P25-26)