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2021年1月23日土曜日

私は左翼を信用していない

 

左翼はひどく悲劇的状況にある。…彼らは言う、「資本主義は限界だ。われわれは新しい何かを見出さねばならない」と。だがあれら左翼連中はほんとうに代案のヴィジョンをもっているのか? 左翼が主として語っていることは、人間の顔をした世界資本主義[global capitalism with a human face]に過ぎない。…私は左翼を信用していない[I don't trust leftists ](Slavoj Žižek interview: “Trump created a crack in the liberal centrist hegemony” 9 JANUARY 2019)


……………


現在、ジジェクやバディウを「教養」としてではなく真に読むなら、次の内容を受け止めなければならない。受け入れるではない、まずは最低限受け止めることだ。


◼️コミュニストリーダーの待望

アラン・バディウは、我々の「民主主義的」神経過敏[our “democratic” sensitivity]に対して「新しいタイプのコミュニストの主人(リーダー)[the new type of Communist master (Leader) ]」の必要不可欠な役割を強調することを怖れない。「私は確信している。われわれは再建しなくてはならない、どの段階においてもコミュニスト過程におけるリーダーの主要な役割を[I am convinced that one has to reestablish the capital function of leaders in the Communist process, whichever its stage.]」(バディウとの個人的対話、2013年4月)


真の主人は統制と禁止のエージェントではない。主人のメッセージは「君たちはしてはいけない!」でも「君たちはしなくてはならない!」でもない。そうではなく「君たちはできる!」と解放することだ。ーー何を? 不可能を為すこと。既存配置の座標軸においては不可能にみえることを解き放つのだ。ーーそしてこれはこの現在、まさに的確な何ものかを意味する。あなたがたは、我々の生の究極的枠組みである「資本主義と自由民主主義」の彼方を考えることができる。


主人とは「消えゆく媒介者 vanishing mediator」(Jameson 1973)である。あなたをあなた自身に戻す媒介者である。真のリーダーに聞き入るとき、我々は何を欲しているのかを(いやむしろ、我々が「それを知らないままで」常に既に欲していたことを)見い出す。


人間は主人が必要なのである。というのは、我々は自らの自由に直接的にはアプローチできないから。このアプローチを獲得するために、我々は外部から押されなければならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できないヘドニズム inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。


ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、可能性という既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016)



◼️コミュニスト仮説

アラン・バディウ)私はコミュニスト仮説[hypothèse communiste] への強い意志を持ち続けている。


ローラン・ジョフラン) そんなものはもはや誰も欲していない。


ジョフラン)あなたが考えているコミュニスト社会の原理とは何なのか?


バディウ)これまでに分かっている仕事は、コミュニスト社会の四つの根源的原理だ。


①生産手段における私有財産の廃止。

②労働における分割の終焉。分割すなわち、命令と遂行とのあいだの分割。知的労働と肉体労働とのあいだの分割。

③国民アイデンティティへの強迫観念の終焉。

④これらすべてを集団的討議の賛同のもと国家弱体化によって成就すること。


(Alain Badiou debates Laurent Joffrin, a reformist (and editor of Libérationnewspaper), who defends existing social democracy. ,2017)



◼️無力なマルチチュード

私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。


半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ [we should stop with this multitudes]、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" ― Part II、19.01.2018)



◼️ネグリインタビュー、2018

マルチチュードは、主権の形成化[forming the sovereign power] へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。〔・・・〕multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。〔・・・〕スピノザの教えにおいて、単独性からコモン[singularity to the common]への移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度[newly invented institutions]へと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ[commontismo]を要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)


なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)



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10年前のジジェクも掲げておこう。



われわれの戦いの相手は、現実の堕落した個人ではなく、権力を手にしている人間全般、彼らの権威、グローバルな秩序とそれを維持するイデオロギー的神秘化である。この戦いに携わることは、バディウの定式 「何も起こらないよりは厄災が起きた方がマシ mieux vaut un désastre qu'un désêtre 」を受け入れることを意味する。つまり、たとえそれが大破局に終わろうとも、あれら終わりなき功利-快楽主義的生き残りの無気力な生を生きるよりは、リスクをとって真理=出来事への忠誠に携わったほうがずっとマシだということだ。この功利-快楽主義的生き残りの仕方こそニーチェが「最後の人間(末人)」と呼んだものだ。(ジジェク『終焉の時代に生きるLiving in the End Times』 2010年)

現代における究極的な敵に与えられる名称が資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である[the name of the ultimate enemy today is not capitalism, empire or exploitation, but democracy]というバディウの主張は、正しい。それは、資本主義的諸関係の根源的な変革を妨げる究極的な枠組みとして「民主的な機構」を捉えることを意味している。 (ジジェク「永遠の経済的非常事態」2010年)



なお、かつてバディウの弟子だったメディ・ベラ・カセム Mehdi Belhaj Kacemは(浅田彰によれば)、《バディウはマオ+ラカンの最悪の結合であり、そのポジションは「ヘテローマッチョ」だ》という意味合いことを言っているそうだ。