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2021年1月31日日曜日

影と反映の形象

 


自我心理学[Ich Psychologie]は、アンナ・フロイトが創始した精神分析の学派で、ハインツ・ハルトマン、エリク・エリクソンはその系列らしいが、ラカンの敵とはこういった連中だよ、何よりもまずね。自我ってなんだい、お前さんたちバカじゃないかって具合でね。自我は《影と反映の形象 figure que d'ombres et de reflets.》(Lacan, E 11, 1956)がラカンの基盤だよ


でも今もってほとんどの連中が多かれ少なかれ自我心理学者なんだよな、ま、若いうちはそれもしょうがないさ。「程よく聡明な」江藤淳みたいにエリクソンあたりでお茶を濁して、人間の心理について何やら言って死んでいったヤツもいることだしな


アンナってのはオットサンが甘やかしすぎたんだよ。


自我は自分の家の主人ではない[Ich …, daß es nicht einmal Herr ist im eigenen Hause](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年)


別にラカンが出しゃばりでてバカにしなくたって、自我なんて影なのはまともなヤツなら昔から知ってたんだけどな


しかし、この学ーー事実上、カントがここで言ってる学は自我心理学だーーの根底にはわれわれは、単純な、それ自身だけでは内容の全く空虚な表象「自我」以外の何ものをもおくことはできない。自我という表象は、それが概念である、と言うことすらできず、あらゆる概念に伴う単なる意識である、と言うことができるだけである。


Zum Grunde derselben koennen wir aber nichts anderes legen, als die einfache und fuer sich selbst an Inhalt gaenzlich leere Vorstellung: Ich; von der man nicht einmal sagen kann, dass sie ein Begriff sei, sondern ein blosses Bewusstsein, das alle Begriffe begleitet.  (カント『純粋理性批判』)


人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 [Nacht der Welt]であり、空無[leere Nichts] である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 [reines Selbst]。こちらに血まみれの頭[blutiger Kopf]が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊[weiße Gestalt]が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜[Nacht der Welt]がこのとき、われわれの現前に現れている。(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie )




引き出しにはこんなのもあるな、気合い系のボウヤやオジョウチャンのために引用しとくか。


私が、私は私だというとき、主体(自己)と客体(自己)とは、切り離されるべきものの本質が損なわれることなしには切り離しが行われえないように統一されているのではない。逆に、自己は、自己からのこの切り離しを通してのみ可能なのである。私はいかにして自己意識なしに、「私!」と言いうるのか?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」)


一方で、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、という条件の下にある。われわれは服従する者としては、強迫、強制、圧迫、抵抗[Zwingens, Draengens, Drueckens, Widerstehens] などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。


しかし他方でまた、われわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「意志するということ Willens」に関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第19番)