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2021年1月28日木曜日

欲動と享楽の相違

フロイトの欲動とラカンの享楽は厳密には違うんだよ。享楽は欲動よりもずっと広い概念で、むしろフロイトのリビドーとほぼ等価。享楽もリビドー もリアル、シンボリック、イマジネールの審級がある。



欲動とは原ナルシシズム的リビドー (自体性愛=自己身体の享楽)のこと。

後期フロイト(おおよそ1920年代半ば以降)において、「自体性愛-ナルシシズム」は、「原ナルシシズム-二次ナルシシズム」におおむね代替されている。Im späteren Werk Freuds (etwa ab Mitte der 20er Jahre) wird die Unter-scheidung »Autoerotismus – Narzissmus« weitgehend durch die Unterscheidung »primärer – sekundärer Narzissmus« ersetzt. . (Leseprobe aus: Kriz, Grundkonzepte der Psychotherapie, 2014)


自体性愛的欲動は原初的である。Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich(フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、(本来の)享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である。


Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance, et plus précisément, comme je l'ai accentué cette année, par sa jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. […] Lacan a étendu ce caractère auto-érotique  en tout rigueur à la  pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


とはいえこの話を厳密にするとかなりややこしいのでーーたとえば自体性愛的享楽としての自己身体の享楽における「自己身体」は、実際は去勢された自己身体、つまり自らの身体だと見なしていたが喪われてしまった身体であるーー、ここではもっとシンプルに記そう。

まず欲望も含めて「あくまで中期ラカンの」定義を示せば次のようになる。



これ自体、最晩年の「人はみな妄想する」を視野に入れれば、少なくとも欲望の主体=幻想の主体は、妄想する主体[sujet délirant]、あるいは妄想の主体[le sujet du délire]となる。


私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。〔・・・〕ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。〔・・・〕あなた方の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。votre monde, est délirant – fantasmatique peut-on dire –, mais, justement, fantasmatique veut dire délirant. (J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


そして妄想とは、フロイト的には必ずしも悪い意味ではない。


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)



冒頭図の「享楽の主体 le sujet de la jouissance =原主体 le sujet primitif 」とはあくまで想定として示されてもので、ラカニアンでもこの語を使う人は稀である。この表現はセミネール10に現れる。





このセミネール10の段階では、斜線を引かれた主体$を欲望の主体としているが、現代ラカン派ではもっと広い意味ーー原去勢であれ、現実界的去勢であれ、象徴界的去勢であれーー「去勢された主体」の意味で使う人もいる。ある時期以降のラカン観点からはむしろこの捉え方の方がすっきりする。

要するに斜線を引かれていない「純粋の=架空の」享楽の主体Sとは次の状態である。



そして出生=原去勢とともに次のようになるという捉え方である。





話を戻して、中期ラカンにおける欲動の主体と欲望の主体をそれぞれひとつずつ示しておこう。


欲動の主体…最も根源的な欲動は、無頭の主体の様式としてある。le sujet de la pulsion … la pulsion dans  sa forme radicale,…comme mode d'un sujet acéphale, (Lacan, S11, 13  Mai  1964)

欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme (ラカン、AE207, 1966)



というわけで、ボクはめんどいから欲動=享楽と記述する場合もあるが、欲動=享楽とするときの享楽とは、穴としての享楽、もしくは斜線を引かれた享楽のこと。

現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

私は、斜線を引かれた享楽を斜線を引かれた主体と等価とする:(- J) ≡ $ [le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $ ] (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)

私は、斜線を引かれた主体を去勢と等価だと記す:$ ≡ (-φ)  [j'écris S barré équivalent à moins phi :  $ ≡ (-φ) ] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XV, 8/avril/2009)




◼️穴としての享楽

享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)



◼️去勢としての享楽

享楽は去勢である [la jouissance est la castration](Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。(J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)

われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)

(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)


ようは生きている存在にとって、享楽とは穴もしくは去勢だが、厄介なのは色々な去勢があり、そこで多くの読み手は混乱する。


われわれはフロイトのなかに現前するものを持ち出すことができる、それが前面には出ていなくても。つまり原去勢[la castration originaire]である。これは象徴的去勢、想像的去勢、現実界的去勢の問題だけではない。そうではなく原去勢の問題である[Il ne s'agit pas seulement là de la castration symbolique, imaginaire ou réelle, mais de la castration originaire] (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS COURS DU 17 MAI 1989)


さらに穴埋めとしての剰余享楽もあるからいっそう何のことやらわからなくなる。


で、去勢されてない享楽とは死ってことだよ(参照)。