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2021年1月28日木曜日

何も起こらないよりは厄災が起きた方がマシ

 少し前こう引用した。

われわれの戦いの相手は、現実の堕落した個人ではなく、権力を手にしている人間全般、彼らの権威、グローバルな秩序とそれを維持するイデオロギー的神秘化である。この戦いに携わることは、バディウの定式 「何も起こらないよりは厄災が起きた方がマシ mieux vaut un désastre qu'un désêtre 」を受け入れることを意味する。つまり、たとえそれが大破局に終わろうとも、あれら終わりなき功利-快楽主義的生き残りの無気力な生を生きるよりは、リスクをとって真理=出来事への忠誠に携わったほうがずっとマシだということだ。この功利-快楽主義的生き残りの仕方こそニーチェが「最後の人間(末人)」と呼んだものだ。(ジジェク『終焉の時代に生きるLiving in the End Times』 2010年)



この最後の人間(末人)で思い出したのだが、21世紀に入ったばかりのころの浅田彰はウツっぽいね、『批評空間』で一緒に仕事をした柄谷行人のNAMにもついていけなくなり、事実上、浅田彰が日本に導入したジジェクにもついていけなくなる(「パウロ=レーニン的ドグマティズムの復活?一ジジェクの『信仰について』/浅田彰2001)。



◼️浅田彰「鎌田哲哉の公開書簡にふれて」(2002年)

子どもの頃、『ツァラトゥストラはこう言った』でニーチェが侮蔑を込めて描いている「最後の人間(末人)」の像に触れて、「これはまさに自分のことだ」と思ったのを覚えている。もはや想像と破壊のドラマは終わり、すべてが平準化された中にあって、「最後の人間」たちは退屈な幸福を生きるだろう。 


あらゆる情報を記録したテープがリミックスを加えて反復されるのを瞬きして眺めながら、(後の章に出てくる「小人」のように)「およそすべては円環をなして回帰する」などと小賢しく呟いてみせもするだろう・・・。 


『早稲田文学』11月号に出た鎌田哲哉の私に宛てた公開書簡は、そのような「最後の人間」であることに居直る私に対し、「安直なニヒリズムを捨て、人間としてまともに生きよ」と呼びかけるものである と言ってよい。 


その書簡は石川啄木の日記にならってローマ字で綴られている。 「僕は啄木のようにまともに生きる、あなたもまともに生きるべきだ」ということだろう。 


その純粋な熱意は(ありがた迷惑とはいえ)ありがたいと思うし、そこに書かれた私への批判も(いくつかの点で異論があるとはいえ)おおむね受け入れる。 


だが、残念ながら、私はその呼びかけに動かされることがなかった。 


ひとつだけ、私の言葉に対する誤解と思われる部分に触れておこう。鎌田哲哉が部分的に引用している通り、西部すすむに「浅田さんがほとんど書かなくなったのは世界や人類を馬鹿にしてのことですか」と問われて、私は「いや単純に怠惰ゆえにです。しいていえば、矮小な範囲で物事が明晰に見えてしまう小利口かつ小器用な人間なので、おおいなる盲目をもてず、したがってどうしても書きたいという欲望ももてない。要するに、本当の才能がないということですね。書くことに選ばれる人間と、選ばれない人間がいるんで、僕は選ばれなかっただけですよ。と、今言ったことすべてが逃げ口上にすぎないということも、明晰に認識していますけど」と答えている (『批評空間』Ⅱ-16)。 


これは、私が本格的なものを書く力がないということ(私の「弱さ」)を、私が明晰に意識しているという意味ではない。書こうとする努力もせずに自分には書けないのだと前もって居直ってしまうことが逃げ口上にすぎないということを、明晰に意識しているという意味だ。 


その意味で、私の立場に論理的な問題はないと思う。 

では、倫理的な問題としてはどうか。 

そのような早すぎる断念は卑怯な逃避として否定されるべきか。 


むろん、私は、自分自身がそうできないだけにいっそう、断念を拒否してなんとか努力しようとする人(鎌田哲哉を含めて)を眩しく見上げ、可能なら助力しようとしてきたが、断念したい人に対して断念するなと言う気はさらさなないし、自分に対してそう言われたくもない。 


努力したい人は努力し、断念したい人は断念する。 

それでいいではないか。 

ここで飛躍を厭わずフランシス・フクヤマが『人間の終り』で論じるバイオテクノロジーの問題ともからめて言えば、20世紀が限りない延命を目指した世紀だったのに対し、21世紀の課題はそれへの反省であり、具体的にいって、たとえば安楽死施設、さらには自殺(幇助)施設の合法化であると思う。 

生きたい人は生き、死にたい人は死ぬ。それでいいではないか。 


ニーチェは「最後の人間」について「少量の毒をときどき飲む。それで気持ちのいい夢が見られる。そして最後には多くの毒を。それによって気持ちよく死んでいく」と書いている。 


かれの侮蔑にもかかわらず、私はそれも悪くない選択肢だと思わずにはいられないのだ。 


もちろん、私はいますぐ死にたいというのではない。大江健三郎の『憂い顔の童子』で「母親が生きている間は自殺できない」という主人公の強迫観念が主題化されていたが、これはすでに父を喪った私にも大変よくわかる。 


幸い、私はきわめて凡庸な常識人なので、倫理と言うより礼節の問題として、母より先に自殺するつもりはない。 


そうやって生き延びている間は、「最後の人間」を気取って暇つぶしをしながら「i-modeかなにかでくだらないお喋りを続けること」があってもいいのではないか。 


また生きて努力しようとする人々にささやかながら助力することがあってもいいのではないか。 

だが、鎌田哲哉が、そのようなおせっかいは生の意思を死の病毒で汚染するだけだというのなら、私はそれを断念し、彼の後姿にむけて静かに幸運を祈るばかりである。



もっともほとんどの人は、浅田の言う意味での末人なんだろう、もちろん私も例外ではない、バディウやジジェクの気合はまったくないから。


もっとも逆に浅田のような「末人」でさえまったくいなくなってしまった現在である、と言っておこう。


◼️対談:浅田 彰(京都大学) + 松浦寿輝(東京大学) 「人文知の現在」2006年

対談でも言ったことだが、わたしの眼に浅田 彰氏は、「知のフットボール」の世界選手権に参加して戦う日本チームの布陣において、さしずめ攻撃的ミッドフィールダーすなわち司令塔と映っている。相手方のパスを遮断して自分のものにしたボールを、すばやくジグザグにドリブルし、一人、二人、三人と抜き去って、いきなり鋭く長いパスを出す。このパスがなかなか一筋縄で行くような代物ではない。俊足をもって鳴るフォワードの面々も、まずたいていのところは追いつけず、シュートの機会を空しく逃してしまう。浅田氏は無表情のまままた新たにボールを追いはじめるが、なぜあれに追いつけないのか、あれに追いつけないかぎりシュートの機会など永遠にめぐってくるまいと、内心ではチッと舌打ちしているに違いない。一方、フォワードはフォワードで、いきなりあんなところに蹴り出されても困る、そもそも俺たちを非難する前に、やれるものなら自分でシュートを決めてみたらどうなんだという憤懣を抱く者もいないではない。


ここ二十年来の日本の知的空間には、自分ならばもっと巧くゲームを組み立てられると慢心した小ミッドフィールダーたちが数多く輩出したが、刻々移り変わる知の現況を浅田氏ほど的確に把握し、ボールと複数の身体の絡み合いを彼ほど華麗に演出しうる者は結局出ていないように思う。もしシュートが決まるとすればそれはこのパスを誰かが拾ってくれることによって以外にないといった、ぎりぎりの地点にボールを出しつづける彼のわざを継承する人材はわれらのチームに育っていないのだ。それにしても浅田氏も五十歳に近づいていることを考えれば、これは由々しい問題ではないか。練習の積み重ねでシュートの精度は高まるだろうし、ドリブルの小技も上達するだろう。だが、絶えず動きつづけるゲームの全体を把握する動体視力だの、ここぞという一瞬を狙い澄まして賭けに出る大胆さだのは、糞真面目に自己鍛錬してどうにかなるようなものではない。


四方田犬彦や伊藤俊治と雑誌『GS』を始めたとき、浅田氏はまだ二十七歳くらいだったはずである。「ニューアカ」などと蔑称される二十年前の知的風土は、なるほど軽薄と言えば軽薄、卑俗と言えば卑俗であったが、しかしそこには少なくとも、大学をもジャーナリズムをも巻き込んで制度に幾つもの風穴を開け、そこから新鮮な風を呼び入れようという勢いだけはあった。手堅い研究発表で業績を稼ぎいい子、いい子と褒められたいなどとは彼らの誰も思っておらず、ただ華麗なゲームを組み立てて満場の観客を唸らせたいという野心にのみ突き動かされ、ときにいかがわしい香具師や曲芸師を演じることも恐れずに、とにかくフィールドの端から端まで度胸よく、全力疾走しつづけていたのである。


浅田 彰の衣鉢を継ぐ攻撃的ミッドフィールダーが若い世代から出てくるべきだと思う。むろん、往時と今では様々な条件が異なっていることはわかっている。これまでにないような陰鬱な閉塞状況があたりを覆い尽くしているのに、それを閉塞とも逼塞とも感じさせない巧緻な力学が働いて、若い世代を萎縮させている。社会は大学に目先の有用性のみ求め、人文科学は徹底的に馬鹿にされている。浅田氏自身誰も拾ってくれないパスを出しつづけることにいささか倦んで、後退戦に入りかけているようにも見える。だが、だからこそ、である。こんな時代だからこそ、的確な状況認識と気宇壮大なヴィジョンを併せ持った知的リーダーが二十代、三十代の若い知識人の間から出現しなければならない。


対談で浅田氏は、翌日に予定された研究発表パネルの要旨を見るかぎり、既成のパラダイムの中で動いているにすぎないという印象を否めない、という趣旨の発言をされたが、これもまた彼の出した攻撃的なパスの一つなのではあろう(「攻撃的」というのは敵に対してのみならず、味方に対してもということだ)。ただ、このボールを受けてくれる味方のプレーヤーは誰もいまい、いるはずがあるまいという諦念とともに蹴り出された、やや自棄的なパスのようにわたしには感じられた。


現在の若手研究者の思考を拘束するほどの強力なパラダイムが、今日あるのかどうかは甚だ疑問である。かつては駒場の「映画論」の授業でレポートを書かせると、蓮實重彦氏の文章の拙劣な模倣が続出して辟易したものだが、今では「映画の表層と戯れる」といった類の論文はすっかり払底してしまい、それが良いことか悪いことかは軽々には断定できない。わたしに迫ってくる印象はむしろ、もはやパラダイムは崩壊したというものだ。かつてのパラダイムが機能不全に陥る一方、新たなパラダイムは誰も提起できずにおり、その結果、とりあえず「良心的」アカデミズムの中で当たり障りなく事態を収拾しようとする微温的な空気が支配的になっているようにも感じられる。それは日本のみならず世界的な現象でもある。この停滞状況にいささかの活力を吹き込むために、「表象文化論学会」にいったい何ができるだろうか。


たしか1990年前後のアメリカだったかフランスだったかのポストモダンのシンポジウムで、浅田彰ともに出席した柄谷行人は、浅田のことを「僕の父」と言っていたように記憶する。10代の頃(高校時代)には蓮實重彦のドゥルーズ『マゾッホとサド』の翻訳に対して誤訳リストを送りつけたという話もある。



柄谷行人は N A Mから反原発デモにいたる過程で六〇年安保闘争へ先祖返りしたようにも見える。その流れは『批評空間 』が創刊された時点からすでに始まっていたのかもしれない。ただ、ぼく自身は、『批評空間 』が担うべき課題は、署名だデモだといった政治運動 (それはそれでむろん重要だけれど )とは異なる理論的・批評的次元にあるはずだと考えていました。冷戦が終結し、新自由主義という名の下に 、プリミティヴな原型に回帰した資本主義が世界を覆いつくそうとしている。ケインズ主義的妥協の下で労働組合に支えられていた労働者も、マルチチュードへと還元され、そこここでゲリラ戦を展開するほかなくなっている。むろんそれは意味のあることだし、そうしたゲリラ戦の連接を図ることも重要だろう。

しかし 『批評空間 』のなすべきことは、たとえエリート主義と言われようが、アドルノのように「グランドホテル深淵 」に籠っていると見られようが、やはり批判的知性を再構築することだろう、と。この点について柄谷行人と議論を詰めたことはないんですが、「政治に回帰する柄谷とアドルノ的エリート主義に回帰する浅田が呉越同舟で 『批評空間 』に同居していた 」という見立てがあるとすれば、「そう見えたとしてもしかたないだろう 」と答えるべきかもしれません。 (浅田彰2016 年:インタビューゲンロン)