妄想とは何度も示しているようにフロイトの定義では悪いものではない。 |
病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年) |
ジャック=アラン・ミレールも次のように言っている。 |
実際は、妄想は象徴的なものだ。妄想は象徴的お話だ。妄想はまた世界を秩序づけうる。En tout état de cause, un délire est symbolique. Un délire est un conte symbolique. Un délire est aussi capable d'ordonner un monde.(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009) |
要するに妄想とは言語によって世界を秩序化することだ、ーー《象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
中井久夫の言い方なら、世界の減圧化、貧困化である。 |
言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
貧困化とは、言語の使用によってニブくなる相があるからだ。 |
言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年) |
ラカン派において主体の原点は、中井久夫の言う自閉症である。 |
自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet, (J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007) |
そして自閉症的享楽の別名は、自己身体の享楽である、ーー《自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. 》(MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)。そしてさらにこの別名がフロイトの自体性愛である(参照)。 |
この自体性愛=自己身体の享楽が享楽自体である。 |
身体の享楽は自閉的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉的である。The jouissance of the body is autistic: thanks to love and to the fantasy we can have relationships with partners – but in the end jouissance is autistic.(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013) |
享楽は自閉症的である、それは両性にとってである。主体の根源的パートナーは孤独である。La jouissance est autistique, tant du coté féminin que masculin. Le partenaire fondamental du sujet reste donc la solitude. (Bernard Porcheret, LE RESSORT DE L'AMOUR ,2016) |
フロイトラカン観点ではヒト族の習性を考える上での最も基本は、次の三つである。 |
享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
父の名という穴埋め bouchon qu'est un Nom du Père (Lacan, S17, 18 Mars 1970) |
愛は穴を穴埋めする。l'amour bouche le trou.(Lacan, S21, 18 Décembre 1973) |
父の名は、純粋な形式的観点においては事実上言語である。 |
父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un, 2/3/2011) |
言語は父の名である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96) |
ーーそして欲望は「欲望の原因=享楽の対象」の換喩の相はあるにしろ、基本的には、父の名は欲望に置き換えてもよい。《欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。》(ミレール「大他者なき大他者 L'Autre sans Autre」 2013) 愛も文化的な言語の審級にある。 |
文化がなかったら愛の問題はないだろう。Qu'il ne serait pas question d'amour s'il n'y avait pas la culture (Lacan, S10, 13 Mars 1963) |
ラカンの 造語 amur(愛-壁)とは、「男と女のあいだには、壁がある。言語の壁があるle mur du langage, ce mur qu’il y a entre l’homme et la femme」 ということである。(Colette Soler : CE QUE LACAN DISAIT DES FEMMES, 2004) |
他方、享楽は身体の審級にある。 |
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011) |
そして身体的な駆り立てる力、穴=トラウマ的な享楽を昇華させるのが、剰余享楽=穴埋めである(厳密には愛はこの剰余享楽をさらに「自己イメージ」で覆う相をもっているがそれについては割愛)。 |
昇華の対象。それは厳密に、ラカンによって導入された剰余享楽の価値である。des objets de la sublimation. …: ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir introduit par Lacan. (J.-A. Miller, L'Autre sans Autre, May 2013) |
ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986) |
前回示したようにこの昇華をラカンは妄想と呼んだのである、おそらく眠り込んでいる精神たちに刺激を与えるためにも。 リアルな享楽の穴とは欲動自体である、ーー《欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.》(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) この欲動の昇華が、ときに剰余享楽、ときに穴埋め、ときに妄想と呼ばれるのである。 |
苦痛に対する防衛テクニックとしてわれわれの心的装置が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること[Technik der Leidabwehr bedient sich der Libidoverschiebungen, welche unser seelischer Apparat gestattet]、これによって、われわれの心的装置の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標[Triebziele]をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにすることである。この目的のためには、欲動の昇華[Sublimierung der Triebe]が役立つ。 一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。…芸術家が制作――すなわち自分の幻想の所産の具体化[Verkörperung seiner Phantasiegebilde]――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決して真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なものである。…だがこの種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。…この種の満足は、粗野な原初の欲動蠢動[primärer Triebregungen]を堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体[Leiblichkeit]までを突き動かすことがない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年) |
冒頭に妄想は悪いものではないとしたが、もちろん次のような相はある。 |
妄想の類似現象は意外なところにある。またしてもサリヴァンであるが、彼は昇華と妄想とが近縁であると言っている。昇華によって、たとえば慈善事業に打ち込んでいると、他のことをしている人間は皆すべきことをしていない人間に見えて来て、自分の仕事に参加すべきだと考えるようになり、「わずらわしい大義の人」になるという例を挙げているが、これは確かに妄想症の一歩手前である。(中井久夫「説き語り『妄想症』」初出1986年『世に棲む患者』所収) |
これ以外にも、たとえば愛の妄想が極まれば、「わずらわしい愛の大義の人」になるだろう。父の名への信念、愛への信念の神経症者は、むしろ重度妄想者なのである。ここに象徴界から現実界を考えた中期までのラカンと、現実界から象徴界を考えるようになった後期ラカンの大きな転回がある。 最後にニーチェを引こう。 |
愛は、人間が事物を、このうえなく、ありのままには見ない状態である。甘美ならしめ、変貌せしめる力と同様、迷妄の力がそこでは絶頂に達する。Die Liebe ist der Zustand, wo der Mensch die Dinge am meisten so sieht, wie sie nicht sind. Die illusorische Kraft ist da auf ihrer Höhe, ebenso die versüßende, die verklärende Kraft. (ニーチェ『反キリスト者』第23節、1888年) |
欲動の昇華は事実上、ニーチェに既にある。
性欲動の発展としての同情と人類愛。復讐欲動の発展としての正義。Mitleid und Liebe zur Menschheit als Entwicklung des Geschlechtstriebes. Gerechtigkeit als Entwicklung des Rachetriebes.(ニーチェ「力への意志」遺稿、1882 - Frühjahr 1887 ) |
芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである。 Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes (ニーチェ「力への意志」遺稿、 1882 - Frühjahr 1887 ) |