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2021年2月22日月曜日

クレタ島人「私」は愛を語りき


人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからなのである(プルースト「ソドムとゴモラ」)


うそは人間において本質的なものである。うそは人間においておそらく快楽の追及とおなじほど大きな役割を演じているだろう、しかも、うそは快楽の追及に従属するのである。人は自分の快楽をまもるためにうそをつく。人は生涯にわたってうそをつく、人は自分を愛してくれる人たちにさえうそをつく、そういう人たちであればこそとりわけうそをつく、おそらくそういう人たちにだけうそをつくだろう。われわれにとっては、正直いって、そういう人たちだけが、自分の快楽をまもるためにおそろしいのであり、しかもそういう人たちだけから、尊敬を受けることが望ましいのである。(プルースト「逃げさる女」)



おい、もうやめとけ



「すべてのクレタ島人は嘘つきだ」とひとりのクレタ島人エピメニデスは言った。« Tous les Crétois sont des menteurs, ainsi parle ÉPIMÉNIDE le Crétois  »〔・・・〕


これは結局、「私は思う」と同じだ。…教授連中にとって(デカルトの)「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立ち止まらないからにすぎない。Eh bien, il en est de même pour le « Je pense » :…  les professeurs …ça ne peut être qu'à ne pas trop s'y arrêter.  


「私は思う」に「私は嘘をつく」と同じだけの要求をするのなら、まず、この意味は「私は考えていると思っている」ということだ。これはイマジネールな、もしくは見解上の「私は思う」、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う「私は思う」以外の何でもない。そこから厄介なことが始まってしまうのだが。


Si nous avons pour le « Je pense » les mêmes exigences que pour le « Je mens » :  

- ou bien ceci voudra dire : « Je pense que je pense »  ce qui n'est alors absolument parler de rien d'autre que le « Je pense » d'opinion ou d'imagination,  le « Je pense » comme vous dites quand vous dites : « Je pense qu'elle m'aime » qui veut dire que  les embêtements vont commencer.  


もう一つの意味は「私は考える存在である」である。- Ou bien alors ceci veut dire :   « Je suis un être pensant »  〔・・・〕


私が「私はひとつの存在です」と言うと、それは「疑いもなく、私は存在にとって本質的な存在である」ということで、ただのおもいあがりである。« Je suis un être »,   cela veut dire :   « Je suis un être essentiel à l'être, sans doute. »   Il n'y a pas besoin d'en jeter plus, on peut garder sa pensée pour son usage personnel.  

(Lacan, S9, 15  Novembre  1961)




死ぬまでわかんねえのかな、

イマジネールってことが



愛自体は見せかけに宛てられる [L'amour lui-même s'adresse du semblant]。…存在の見せかけ[semblant d'être]、…私マジネール=イマジネール« i-maginaire »…それは、欲望の原因としての対象aを包み隠す自己イマージュの覆い [l'habillement de l'image de soi qui vient envelopper l'objet cause du désir]の基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973、摘要訳)


自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)



想像界から来る対象、自己のイマージュ[image de soi]によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。

c'est un objet qui vient tout de même de l'imaginaire, c'est un objet qu'on met en valeur à partir de l'image de soi, c'est-à-dire de la théorie du narcissisme, l'image de soi chez Lacan, s'appelle i de petit a. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 09/03/2011)




理想自我[ i'(a) ]は、自我[i(a) ]を一連の同一化によって構成する機能である。Le  moi-Idéal [ i'(a) ]   est cette fonction par où le moi [i(a) ]est constitué  par la série des identifications (Lacan, S10, 23 Janvier l963)

理想自我は自己愛に適用される。ナルシシズムはこの新しい理想的自我に変位した外観を示す。[Idealich gilt nun die Selbstliebe, …Der Narzißmus erscheint auf dieses neue ideale Ich verschoben](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)







「私」は自我ではあり得ない。« je » peut n'être pas moi


「私」は想像界を発動する。« je » mobilise l'imaginaire, (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

「自我」がもはや「自身」でない以上、私が「自我」について語っていけない理由はないではないか、。pourquoi ne parlerais-je pas de «moi». puisque «moi» n'est plus «soi»? (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

ここにあるいっさいは、小説の登場人物によって語られているものと見なされるべきである。Tout ceci doit être considéré comme dit par un personnage de roman (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)




自己を見つめる?

あほらし!

自己対話してるだけだ



誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)

デカルトは、自分の考えていることが、夢をみているだけではないかと疑う。…夢をみているのではないかという疑いは、『方法序説』においては、自分が共同体の”慣習”または”先入見”にしたがっているだけではないかという疑いと同義である。…疑う主体は、共同体の外部へ出ようとする意志としてのみある。デカルトは、それを精神とよんでいる。(柄谷行人『探求Ⅱ』)



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「享楽の対象」は、「防衛の原因」かつ「欲望の原因」としてある。というのは、欲望自体は、享楽に対する防衛の様相があるから。l'objet jouissance comme cause de la défense et comme cause du désir, en tant que le désir lui-même est une modalité de la défense contre la jouissance.(J.-A. Miller, L'OBJET JOUISSANCE, 2016/3)





享楽の対象[l'objet jouissance]は幻想においていかに隠蔽されるか。とくにそれが愛の様相[la modalité de l'amour]となる時に。


フロイトはナルシシズムの様相とアタッチメントの様相[la modalité narcissique et la modalité anaclitique]の二つを区別した。ナルシシズムの様相においては、「自己としての小文字の他者[l'autre en tant que même]によって隠蔽される。アタッチメントの様相においては、「大他者[l'Autre]」によって隠蔽される。ラカンにとって前者の「自己としての小文字の他者」は鏡像段階[stade du miroir]との関係をもつ。〔・・・〕


享楽の対象が幻想において隠蔽される二つの様相がある[il y a deux modes sous lesquels l'objet jouissance peut être caché dans le fantasme]。一方はi (a) の下、他方は「大文字の他者[l'Autre]」の下である。この二つの関係は想像界と象徴界である。そして現実界の審級にある欲動の享楽対象[l'objet jouissance de la pulsion]が底部にある。(J.-A. Miller, L'OBJET JOUISSANCE, 2016/3)




見つめるべきは異者だ


この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている。 ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté, (Lacan, S16, 14  Mai  1969)

ラカンは言っている、対象aは大他者のトポロジー的構造であり、(異者=)対象aは主体自体だと。Lacan peut dire du petit a qu'il est la structure topologique du grand Autre, et dire ensuite que le petit a est le sujet lui-même.(J.-A. Miller, UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE, 2006/3)


ーー《異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger》 (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)


現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III,-16/06/2004)

ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると。Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet(J.-A. Miller, Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre, 2007)


表現の仕方は異なっても、まともな連中は誰だってやってる。➡︎私の中にあって私以上のもの=異者(プルースト)