女性は男性に比べてカウンセラーやってくれる人が少ない筈だから、もっとマッサージ師使ったらどうかね。使用率データを見る限りまだまだ少ないね。精神科医なんかよりずっといいよ。
もっともツイッターなんかでも精神治療になるのかな、ボクはツイッターをバカにする傾向があるが、この意味では考え直す必要があるな。無料マッサージみたいなものかも知れないから。
◼️文明という不幸 |
個人にとって、強大な帝国の支配下にあるのと、乱世といずれが幸福かは、にわかにいうことができない。さらにいえば、歴史は、四大河流域における文明の勃興をなお善であり、進歩とするが、しかし、生涯をピラミッドの建設や運河の掘削に費やす生活と森の狩猟採集民の生活とのいずれを選ぶかは答えに窮する問題である。「桃源郷」は前者が夢見た後者であろう。(中井久夫「治療文化論再考」1994年) |
◼️王・売春婦・精神科医という人類最古の職業 |
古代都市の成立は、技術史家ルイス・マンフォードによれば、すでに人力による巨大機械の成立であり、今日まで連続する事態であるという。逆に見みれば、古代都市の成立あるいは一般に civilisation とは、人類文化の人間個体への一身具現性の急激な低下である。医師はより古い層より出て、この一身具現性を少なくとも最近まで残していた。特に精神科医は、その意味でも王や売春婦とともに"人類最古の職業"といいうるであろう。医療が"技術"といら言葉に尽しえないものを持ち、このことばに感覚的にもなじみえないのはそのためであろう。売春婦の”技術" がきわめて一身具現的であるのにやや劣るとしても(筆者は戯れに言うのではない。下位文化としての"治療文化" 全体を問題にしているのだ、古代中東の神殿売春を特筆するわけではないが)。中井久夫「西洋精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年) |
◼️売春婦というカウンセラー |
…私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。 そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。 患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。 精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。 実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。 |
職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただの promiscuous なひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。) しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。 以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(中井久夫『治療文化論』1990年) |
◼️マッサージ師、ホステス、プロスティテュートというカウンセラー |
人間の精神衛生維持行動は、意外に平凡かつ単純であって、男女によって順位こそ異なるが、雑談、買物、酒、タバコが四大ストレス解消法である。しかし、それでよい。何でも話せる友人が一人いるかいないかが、実際上、精神病発病時においてその人の予後を決定するといってよいくらいだと、私はかねがね思っている。 通常の友人家族による精神衛生の維持に失敗したと感じた個人は、隣人にたよる。小コミュニティ治療文化の開幕である。(米国には)さまざなな公的私的クラブがある。その機能はわが国の学生小集団やヨットクラブを例として述べたとおりである。 |
もうすこし専門化された精神衛生維持資源もある。マッサージ師、鍼灸師、ヨーガ師、その他の身体を介しての精神衛生的治療文化は無視できない広がりをもっている。古代ギリシャの昔のように、今日でも「体操教師」(ジョギング、テニス、マッサージ)、料理人(「自然食など」)、「断食」「占い師」が精神科的治療文化の相当部分をになっている。ことの善悪当否をしばらくおけば、占い師、ホステス、プロスティテュートも、カウンセリング・アクティヴィティなどを通じて、精神科的治療文化につながっている。カウンセリング行動はどうやら人類のほとんど本能といいたくなるほど基本的な活動に属しているらしい。彼らはカウンセラーとしての責任性を持たない(期待されない)代り、相手のパースナル・ディグニティを損なわない利点があり、アクセス性も一般に高い。(中井久夫『治療文化論』1990年) |
◼️哲学者というカウンセラー |
近代医療のなりたちですが、これは一般の科学の歴史、特に通俗史にあるような、直線的に徐々に発展してきたというような、なまやさしい道程ではありません。 ヨーロッパの医療の歴史は約二千五百年前のギリシャから始めるのが慣例です。この頃のギリシャは、国の底辺に奴隷がいて、その上に普通の職人と外国人がいて、一番上に市民がいました。当時のギリシャでは神殿にお参りしてくる人のために神殿付きドクターと、一方では奴隷に道具一式をかつがせて御用聞きに回るドクターとがありました。 |
ドクターの治療を受けられたのは中間層であって、奴隷は人間として扱われていなかったのでしばしば病気になってもほっておかれました。市民は働かないで、市の真中の広場に集まって一日中話し合っているんです。これが民主主義の始まりみたいな奇麗ごとにされていますが、働かない人というのはものすごく退屈していますから、面白い話をしてくれる人が歓迎されます。そこでは妄想は皆が面白がって、病気とはみなされなかったようです。いちばん上の階級である市民が悩むと「哲学者」をやとってきて話をさせます。つまり当時の哲学者はカウンセラーとして生計を立てているのです。この辺はローマでも同じです。ローマ帝国は他国を侵略して、だんだん大きくなってきます。他国人を捕えて奴隷として働かせ、消耗品として悲惨な扱いをしていました。暴力の発散の対象に奴隷がなって、慰みに殺されたりしています。……(中井久夫「近代精神医療のなりたち」『精神科医がものを書くとき』所収) |
「やめとけよもう」で仄かしたこともちょっと思い直さなくちゃいけないかもな、精神治療になってるのだったら愛の妄想に耽けるのも悪くないさ
でもどうしたって見返り求めちゃうんだよな
それをなくす方法ってあるんだろうか?
悪魔だ、熱病だ!
愛は悪魔だ。熱病という名の精神病だ。自分のつごうでふりまいておきながら、見返りだけはがっちり求めてくる得手勝手なヤツだ。愛するというのは悪いことだ。(深沢七郎ーー「悪魔だ、熱病だ!」初出誌不明 森茉莉のスクラップ帖にはさまっていた切り抜き)