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2021年2月17日水曜日

乞ひが欲しないものがあろうか

 

まずラカンの三文を並べる。


享楽の対象…モノ…それは快原理の彼岸の水準にあり、喪われた対象である。Objet de jouissance …La Chose…Au-delà du principe du plaisir …cet objet perdu(Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

享楽は穴として示される他ない。[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

享楽は去勢である。la jouissance est la castration. (Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


そしてもうひとつ、《身体は穴である。corps…C'est un trou》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


これらを混淆させれば、「喪われた対象としての享楽の対象=モノとは、去勢された自己身体であり、これを穴とも呼ぶ」となる。この思考はフロイトにもある➡︎ 「去勢された自己身体ーー自体性愛文献」。


この去勢された身体とは、究極的には「母の身体」である。


モノは母である。das Ding, qui est la mère (Lacan,  S7 16 Décembre 1959)

「母はモノである」とは、母はモノのトポロジー的場に来るということである。これは、最終的にメラニー・クラインが、母の神秘的身体[le corps mythique de la mère]をモノの場に置いた処である。« la mère c'est das Ding » ça vient à la place topologique de das Ding, où il peut dire que finalement Mélanie Klein a mis à la place de das Ding le corps mythique de la mère. (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme  - 28/1/98)


フロイトからも一文だけ引用しておく。


乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)




以下は主に上の内容の確認である。 

去勢は享楽控除とも示される。


われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(享楽の控除)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)

(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、享楽の控除 (- J) を表すフロイト用語である。le moins-phi (- φ) qui veut dire « castration » , le mot freudien pour cette soustraction de jouissance. (- J) (J.~A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)


そして去勢は穴である。


-φ [去勢]の上の対象aは、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un,- 9/2/2011)




対象aには大きく言って「穴と穴埋め」の二つの意味がある。


ラカンは享楽と剰余享楽を区別した[il distinguera la jouissance du plus-de-jouir]。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]。われわれは(穴としての)対象aを去勢を含有しているものとして置く[Nous posons l'objet a en tant qu'il inclut (-φ) ](J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)


穴としての対象aはȺとも書かれる。


私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。リアルであり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある。Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : (Lacan, S13, 09 Février 1966)

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。この穴としての対象aは主体との関係において、我々に問いを呼び起こす。C'est justement en ceci que l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel, qui est mis en question pour nous dans sa relation au sujet. (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)


したがって先程の「穴埋め/穴」図は、次のようにも示せる。






享楽の控除 (- J)をラカンは「リビドーの控除」としても示した。


リビドーは、人が性的再生産の循環に従うことにより、生きる存在から控除される。La libido, …de ce qui est justement soustrait à l'être vivant, d'être soumis au cycle de la reproduction sexuée.〔Lacan, S11, 20 Mai 1964)


リビドー=享楽であり、リビドーの控除=享楽の控除となる。


享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)


繰り返せば、リビドーの控除(享楽の控除)=去勢であり、これが穴である。


リビドーはその名が示しているように、穴に関与せざるをいられない。La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)



ここで今度はジャック=アラン・ミレールの簡潔な三文を並べる。


去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)

モノは享楽の名である。das Ding…est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

モノとしての享楽の価値は、穴と等価である。La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré [Ⱥ] (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


この三文から「穴は享楽の名である[Le trou est le nom de la jouissance]」とすることができる。

すなわち享楽の名は去勢であり、モノであり、リビドーである。


ラカンには象徴界におけるファルス享楽、想像界における自我の享楽(ナルシシズムの享楽)があるが、本来の享楽は言語外のトラウマ的現実界である、ーー《享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. 》(ラカン、S23, 10 Février 1976)


したがって享楽と同様、現実界も穴と表現される。


現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


リビドーには享楽と同様、イマジネールなリビドー、シンボリックなリビドーがあるが、リアルなリビドーはこの欲動の現実界ことであり享楽自体である、ーー《欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである。pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.》(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


上に « troumatisme »という造語があるように、穴とはトラウマのことである。


問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.   (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)


ラカンはフロイトのモノを既にセミナールⅩⅠの段階で、トラウマとして扱っている。


(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma, (ラカン、S11、12 Février 1964)

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )



こうして冒頭近くに示した「喪われた対象としての享楽の対象=モノとは、去勢された自己身体であり、これを穴とも呼ぶ」が確認できた筈である。


……………


ところでジャック=アラン・ミレールはこうも言っている。


我々は、フロイトが Lust(飢え) と呼んだものを享楽と翻訳する。ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance. (J.-A. Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)


今、Lust を「飢え」と訳したのはフロイトの次の文に依拠する。


人間や動物にみられる性的欲求[geschlechtlicher Bedürfnisse]の事実は、生物学では性欲動[Geschlechtstriebes]という仮定によって表される。この場合、栄養摂取の欲動[Trieb nach Nahrungsaufnahme]、すなわち飢えの事例にならっているわけである。しかし、「飢え[Hunger]」という言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味ではリビドー[Libido]という言葉を用いている。(フロイト『性理論三篇』1905年)

1910年注:リビドーはドイツ語において»Lust« という語が唯一適切な語だが、残念なことに多義的であり、求める感覚と同時に満たされる感覚を呼ぶのにも使われる。Libido: Das einzig angemessene Wort der deutschen Sprache »Lust« ist leider vieldeutig und benennt ebensowohl die Empfindung des Bedürfnisses als die der Befriedigung.. (フロイト『性理論三篇』1905年)


すなわちLust=Libido=Hungerである。


リビドーは、自己保存欲動における「飢え」のように、愛の力の表出と同じ意味である。Die Libido war in gleichem Sinne die Kraftäußerung der Liebe, wie der Hunger des Selbsterhaltungstriebes. (Freud, “Psychoanalyse” und “Libido Theorie”, 1923)


飢え[Hunger]とは、愛の力[Liebeskraft]、すなわち愛の欲動[Liebestriebe]である。


リビドーは愛と要約できる。Libido ist …was man als Liebe zusammenfassen kann. 〔・・・〕哲学者プラトンのエロスは、その由来や作用や性愛との関係の点で精神分析でいう愛の力 、すなわちリビドーと完全に一致している。Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse〔・・・〕


この愛の欲動を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動と名づける。Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


フロイトはこの愛について渇望・欠如[Sehnen, Entbehren]とも表現しているが、これは、リビドーの定義にある飢え[Hunger」 と相同的な表現としてよいだろう。


愛自体は、渇望・欠如である。Das Lieben an sich, als Sehnen, Entbehren (フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)


この「飢え」としての愛の力であるリビドーは、上でも確認したように享楽である。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


すなわち、Lust=Libido=Liebeskraft =Hunger =Jouissance 


さてどうだろうか? 私は「享楽」という訳語に居心地が悪くて仕方がないのである。「悦」と訳す人もいるがこれも気に入らない。いっそう「飢え」に統一したらどうだろう。享楽も悦もどうも乙女チックに感じられて仕様がない。


飢えなんて下品でダメよ、というなら、妥協案として折口の「乞ひ=恋ひ」はどうだろう。


こゝに予め、説かねばならぬ一つは、恋愛を意味するこひなる語である。

こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「乞ひ度(わた)す」と謂つた用語例もある。領巾・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。(折口信夫「日本文学の発生」)

こふ(恋ふ)と云ふ語の第一義は、実は、しぬぶとは遠いものであつた。魂を欲すると言へば、はまりさうな内容を持つて居たらしい。魂の還るを乞ふにも、魂の我が身に来りつく事を願ふ義にも用ゐられて居る。たまふ(目上から)に対するこふ・いはふに近いこむ(籠む)などは、其原義の、生きみ魂の分裂の信仰に関係ある事を見せてゐる。(折口信夫「国文学の発生(第四稿)唱導的方面を中心として」)


たとえば「悦」と訳されることの多いニーチェのLustに「乞ひ」を代入したらピッタンコである。


欲動〔・・・〕、それは「乞ひへの渇き、生成への渇き、力への渇き」である。Triebe […] "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)

性的乞ひと自傷行為は近似した欲動である。Wollust und Selbstverstümmelung sind nachbarliche Triebe. (ニーチェ「力への意志」遺稿1882 - Frühjahr 1887)


みなさん、今後、「享楽」やら「悦」やらという訳語を見たら、すぐさま「乞ひ」という語に置き換えて読まねばなりません。たとえば女性の享楽なら「女性の乞ひ」です。ファルスの享楽なら「ファルスの乞ひ」です。


実はこの記事はこれが言いたかっただけですが、前半クダラヌコトを長々記してしまいました。


乞ひが欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.


…すべての乞ひは永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第9節1885年)

乞ひが欲しないものがあろうか。乞ひは、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。乞ひはみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が乞ひのなかに環をなしてめぐっている。―― 


_was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌 Das Nachtwandler-Lied 」第11節)





もちろんモノも愛も乞ひです。


美は、最後の障壁を構成する機能をもっている、最後の乞ひ、死に至る乞ひへの接近の前にある。この場に、死の欲動の用語の下でのフロイトの思考が最後の入場をする。〔・・・〕この美の相、それはプラトン(『饗宴』)がわれわれに告げた乞ひについての真の意味である。


« la beauté » …a pour fonction de constituer le dernier barrage avant cet accès à la Chose dernière, à la Chose mortelle,  à ce point où est venue faire son dernier aveu  la méditation freudienne sous le terme de la pulsion de mort. […]la dimension de la beauté, et c'est cela qui donne son véritable sens à ce que PLATON  va nous dire de l'amour. (Lacan, S8, 23  Novembre 1960)

死は乞ひである [la mort, c'est l'amour.](Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)