味覚の場合は聴覚のようには想起できないみたいだな、ボクの場合。
須磨の女ともだちからおくられた
さくら漬をさゆに浮かべると
季節はづれのはなびらはうすぎぬの
ネグリジェのやうにさくらいろ
にひらいてにほふをんなのあそこ
のやうにしょっぱい舌さきの感触に
目に染みるあをいあをい空それは
いくさのさなかの死のしづけさのなか
――那河太郎「小品」
プルーストにおいては、五感のうち三つの感覚によって思い出が導き出される。しかし、その木目〔きめ〕という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声を別とすれば、私の場合、思い出や欲望や死や不可能な回帰は、プルーストとはおもむきが異なっている。私の身体は、マドレーヌ菓子や舗石やバルベックのナプキンの話にうまく乗せられることはないのだ。二度と戻ってくるはずのないもののうちで、私に戻ってくるもの、それはにおいである。 Chez Proust, trois sens sur cinq conduisent le souvenir. Mais pour moi, mise à part la voix, moins sonore au fond que, par son grain, parfumée, le souvenir, le désir, la mort, le retour impossible, ne sont pas de ce côté-là ; mon corps ne marche pas dans l’histoire de la madeleine, des pavés et des serviettes de Balbec. De ce qui ne reviendra plus, c’est l’odeur qui me revient. (『彼自身によるロラン・バルト』1975 年) |
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バルトはこの《私の身体 mon corps》に相当するものを《私の享楽の身体 mon corps de jouissance 》(『テキストの快楽』1973年)、《身体の記憶 la mémoire du corps》(「南西部の光 」1977年)とも言っている。1970年代のバルトの仕事は身体をめぐっている。 遺著『明るい部屋』のプンクトゥムも「身体の傷」と見なしてよい。 |
プンクトゥムは、刺し傷、小さな穴、小さな染み、小さな裂け目のことであるpunctum, c'est aussi : piqûre, petit trou, petite tache, petite coupure (『明るい部屋』1980年) |
上にあるように「身体の穴」と言ってもいい、ーー《身体は穴である。corps…C'est un trou》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)。ラカンはこの穴に相当するものを骨象a[osbjet a]とも言ったが、要するに身体に突き刺さった骨だ。これが消去しえない身体の記憶として機能し、リアルな身体の享楽を生む。誰もがこの身体の上への刻印=骨による穴を持っている。 |