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2021年2月24日水曜日

私が、私は私だというとき[Wenn ich sage: Ich bin Ich](ヘルダーリン)

 

◼️ヘルダーリン「判断と存在」(1795年)より

存在 ― それは主観と客観との結合を表現している。

主観と客観とが単に部分としてのみ合一されているのではなく、したがって分離さるべきものの本質を損なうことなしには分割が行われえないように端的に合一されている場合にのみ、叡知的直観の場合と同様に、端的な存在が問題となりうる。


Seyn – drükt die Verbindung des Subjects und Objects aus.

Wo Subject und Object schlechthin, nicht nur zum Theil vereiniget ist, mithin so vereiniget, daß gar keine Theilung vorgenommen werden kan, ohne das Wesen desjenigen, was getrennt werden soll, zu verlezen, da und sonst nirgends kann von einem Seyn schlechthin die Rede seyn, wie es bei der intellectualen Anschauung der Fall ist.


しかし、この存在は同一性と混同されてはならない。もし私が、私は私だというとき、主観(自我)と客観(自我)とは分離さるべきものの本質が損なわれることなしには分離が行われえないように合一されているのではない。逆に、自我は、自我からの自我のこの分離を通じてのみ可能なのである。私は如何にして自己意識なしに、自我!と言い得るのか? しかし自己意識は如何にして可能なのか?


Aber dieses Seyn muß nicht mit der Identität verwechselt werden. Wenn ich sage: Ich bin Ich, so ist das Subject (Ich) und das Object (Ich) nicht so vereiniget, daß gar keine Trennung vorgenommen werden kann, ohne, das Wesen desjenigen, was getrennt werden soll, zu verlezen; im Gegenteil das Ich ist nur durch diese Trennung des Ichs vom Ich möglich. Wie kann ich sagen: Ich! ohne Selbstbewußtseyn? 



私は私に私自身を対立させることによって、私を私自身から分離するが、しかしこの分離にもかかわらず私を対立の中で同一のものとして認識する。しかしどの程度まで同一のものとしてなのか? そのように私は問い得るし、問わねばならない。というのは、別の観点においては、それは自分に対立しているからである。それゆえ、この同一性は、端的に生じるような主観と客観との合一ではなく、それゆえ、この同一性は、絶対的存在には等しく(=)ない。


Wie ist aber Selbstbewußtseyn möglich? Dadurch daß ich mich mir selbst entgegenseze, mich von mir selbst trenne, aber ungeachtet dieser Trennung mich im entgegengesezten als dasselbe erkenne. Aber in wieferne als dasselbe? Ich kann, ich muß so fragen; denn in einer andern Rüksicht ist es sich entgegengesezt. Also ist die Identität keine Vereinigung des Objects und Subjects, die schlechthin stattfände, also ist die Identität nicht = dem absoluten Seyn.

(Friedrich Hölderlin, “Über Urtheil und Seyn” 1795)





一方で、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、という条件の下にある。われわれは服従する者としては、強迫、強制、圧迫、抵抗 などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになる。しかし他方でまた、われわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、意志するということに関してまつわりついてきたのである。

insofern wir im gegebenen Falle zugleich die Befehlenden und Gehorchenden sind, und als Gehorchende die Gefuehle des Zwingens, Draengens, Drueckens, Widerstehens, Bewegens kennen, welche sofort nach dem Akte des Willens zu beginnen pflegen;insofern wir andererseits die Gewohnheit haben, uns ueber diese Zweiheit vermoege des synthetischen Begriffs "ich" hinwegzusetzen, hinwegzutaeuschen, hat sich an das Wollen noch eine ganze Kette von irrthuemlichen Schluessen und folglich von falschen Werthschaetzungen des Willens selbst angehaengt, - dergestalt, dass der Wollende mit gutem Glauben glaubt, Wollen genuege zur Aktion.

(ニーチェ『善悪の彼岸』第19番より、1886年)




人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「あなた〔vous〕」と「彼〔il〕」はパラノイア(妄想症)を発動する。しかしそれと同時に、読み取り手によっては、ひそかに、モアレ反射のように、すべてが逆転させられる可能性もある。「私ですか、私は」と言うとき、「私は」は「私ですか」ではない、ということがありうる。つまり「私〔私は〕」が「自我〔私ですか〕」を、いわばカーニヴァルの喧騒のうちにこわしてしまうのだ。


Pronoms dits personnels: tout se joue ici, je suis enfermé à jamais dans la lice pronominale: ‚je‘ mobilise l’imaginaire, ‚vous‘ et ‚il‘, la paranoïa. Mais aussi, fugitivement, selon le lecteur, tout, comme les reflets d’une moire, peut se retourner: dans ‚moi, je‘, ‚je‘ peut n’être pas moi, qu’il casse d’une façon carnavalesque;

私は、サドがやっていたように、私に向かって「あなた vous」と言うことができる。それは、私自身の内部で、エクリチュールの労働者、製作者、産出者を、作品の主体(“著者”)から切り離すためだ。他方では、次のような現象もある。すなわち、自身について語らないことは、《私は、自分について語らない“者”です》という意味になりうる。そして、「彼」と呼んで自身について語ることは、私は私の自我について《あたかもいくぶんか死んでいるもののように》、妄想的強調という薄い霧の中に捉われているものであるかのように語っている、という意味にもなりうるし、それはさらにまた、私は自分の登場人物に対して距離設定(異化 Verfremdung)をしなければならないブレヒトの役者の流儀によって私の自我について語っている、という意味にもなる。

je puis me dire « vous », comme Sade le faisait, pour détacher en moi l’ouvrier, le fabricant, le producteur d’écriture, du sujet de l’œuvre (l’Auteur); d’un autre côté, ne pas parler de soi peut vouloir dire: je suis Celui qui ne parle pas de lui; et parler de soi en disant ‚il‘, peut vouloir dire: je parle de moi comme d’un peu mort, pris dans une légère brume d’emphase paranoïaque, ou encore: je parle de moi à la façon de l’acteur brechtien qui doit distancer son personnage: le ‚montrer‘, non l’incarner…

(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)




自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。(古井由吉『「私」という白道』1986年)

「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。〔・・・〕この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。(古井由吉『ムージル観念のエロス』1988年)



……………



教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立ち止まらないからにすぎない。


「私は思う Je pense」に「私は嘘をついている Je mens」と同じだけの要求をするのなら次の二つに一つが考えられる。まず、それは「私は考えていると思っている Je pense que je pense」という意味。


これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」 、 「彼女は私を愛していると私は思う Je pense qu'elle m'aime」と言う場合にーーつまり厄介なことが起こるというわけだがーー言う「私は思う」以外の何でもない。…


もう一つの意味は「私は考える存在である Je suis un être pensant」である。この場合はもちろん、 「我思う」から自分の存在に対して思い上がりも偏見もない立場をまさに引き出そうとすることをそもそも台無しにすることになる。


私が「私はひとつの存在です Je suis un être」と言うと、それは「疑いもなく、私は存在にとって本質的な存在である Je suis un être essentiel à l'être, sans doute」ということで、ただのおもいあがりである。(ラカン、S9, 15 Novembre 1961)