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2021年3月14日日曜日

ヴァギナ不安


神経症と精神病ってのはこういうことだよ


現在一般に神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化の傾向がある。実際には、どれだけ自他の生活を邪魔するかで実用的に区別されているのではないか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

深さの問題としてとらえれば「マスクされた精神病」masked psychosis のある一方、神経症が精神病(あるいは身体病)をマスクすることも多い(“masking neurosis”)。ヤップは、文化的変異を基礎的な病いの被覆(うわおおい overlay)と考えていた。


 私は精神病に、非常に古い時代に有用であったものの空転と失調の行きつく涯をみた(『分裂病と人類』1982年)。分裂病と、うつ病の病前性格の一つである執着性気質の二つについてであったが、要するに、人類に骨がらみの、歴史の古い病いということだ。これは「文化依存症候群」のほうが古型であるという通念に逆らい、いずれにせよ証明はできないが、より整合的な臆説でありうると思う。むろん文化依存症候群の総体が新しいのではなく、表現型の可変性が高いという意味である。(中井久夫『治療文化論』1990年)


「正常」なつもりの神経症者は、精神病をマスクしているだけってことだ、「マスクされた精神病」masked psychosis 、ーー「繕い隠された精神病」une psychose dissimulée, 「ヴェールされた精神病」une psychose voiléeだ。


我々の臨床は本質的に二項性を持っていた。その結果はこうだ。長い間あなた方は、臨床家を、分析家を、心理療法士を見た、患者が神経症なのか精神病なのかを問い彷徨う彼らを。あなた方は見ることができる、あれら分析家は毎年毎年患者xについての話に戻るのだ、「決めたのかい、彼が神経症なのか精神病なのかを?」Avez-vous décidé s'il est névrosé ou psychotique ? そしてこう言う、「いや、まだ決まらない」Non, je n'ai pas décidé pour le moment。これが何年も続くのだ。明らかにこれは物事を考えるのに納得できるやり方ではない。


もしあなた方が何年もの間、主体の神経症を疑う理由があるなら、あなた方は賭けることができる、彼はむしろ「ふつうの精神病」un psychotique ordinaireだと。それが神経症であるとき、あなた方は知らなければならない!それがこの神経症概念への貢献だ。神経症はウォールペーパーではない。神経症は明確な構造があると。


もしあなたが患者に神経症の明確な構造を認知しないなら、あなたは賭けることができる、あるいは賭けを試みなければならない、それは繕い隠された精神病、ヴェールされた精神病だとc'est une psychose dissimulée, une psychose voilée。(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)


ミレールの「ふつうの精神病」un psychotique ordinaire概念は、ラカンの「人はみな狂っている、人はみな妄想する」tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant を言い換えただけで、要するに、人はみなリアルな享楽の穴=トラウマーー《現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン, S21, 19 Février 1974)》ーーを「妄想」にて穴埋めをしなくちゃならないということだ。


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[ la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)


で、穴埋めツールの代表は、倒錯、父の名、愛だ。


倒錯者は、大他者の穴を穴埋めすることに自ら奉仕する[ le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre,](ラカン、S16、26 Mars 1969)

父の名という穴埋め[ bouchon qu'est un Nom du Père]  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou].(Lacan, S21, 18 Décembre 1973)


この三つはどれも似たようなもので、だからラカンは父の信者を「父の版の倒錯」と言ったわけだ。


倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)


愛ももちろん愛の版の倒錯だ。たとえばガチガチの父の名の信者、神の信者であるヒステリー神経症者ーー神への愛に陶酔しちゃっているオネエサンたちは、ほとんどの場合、ヴァギナ不安をマスクしてるだけさ。これは古典的な「真理」だよ。


ヒステリーにおけるエディプスコンプレクス…何よりもまずヒステリーは過剰なファルス化を「選択」する、ヴァギナについての不安のせいで。the Oedipus complex in hysteria,…that hysteria first of all 'opts' for this over-phallicisation because of an anxiety about the vagina. . (PAUL VERHAEGHE,  DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)



よくわかるよ、〈きみ〉がヴァギナ不安に対して防衛しているさまが。


男だってそうさ。

でもサイワイにも自分の股の間に深淵があるわけじゃないから

ヒステリー度はだいぶ低いわけだ、一般的には。

逆に多くの男にはヒステリーの方言があるわけだが、ーー《強迫神経症言語は、ヒステリー言語の方言である。die Sprache der Zwangsneurose ist gleichsam nur ein Dialekt der hysterischen Sprache》(フロイト 『強迫神経症の一例についての見解〔鼠男〕』 1909年)


(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊[la révélation de l'image terrifiante, angoissante]、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]。


あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象[l'objet primitif]そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落[abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ[l'image de la mort, où tout vient se terminer ]…(ラカン、S2, 16 Mars 1955)




芸術への愛もやっぱりヴァギナ不安ーー不安とは享楽の穴のことだーーに対する防衛だよ(質のいい最後の防衛と言ってもよいが)。ニーチェがしつこく繰り返しているように。

これまでのところ、人間の最高の祝祭は生殖と死であるに違いない。So weit soll es kommen, daß die obersten Feste des Menschen die Zeugung und der Tod sind!  (ニーチェ遺稿137番、1882 - Frühjahr 1887)

芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである。Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes   (ニーチェ遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )

すべての美は生殖を刺激する、ーーこれこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質である。daß alle Schönheit zur Zeugung reize - daß dies gerade das proprium ihrer Wirkung sei, vom Sinnlichsten bis hinauf ins Geistigste... (ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」22節『偶像の黄昏』1888年)