平四郎は凡そ美人というものが嫌いなのは、すぐそれを見る男の根性を卑しいと見る美人の倣慢さが、反射してくることだ、彼女にもそれがたくさんあって、平四郎はつい早くは挨拶してわかれた。〔・・・〕 ただそんな平四郎の注意力が、りさ子にとうに解っているらしく、ちょっと平四郎の方を見ていても、直ぐに外してしまい、瞳はすばやく逃げて、杏子と平之介の話にまぎれこんでいた、そのたくまない巧さは、自分の美しいことを知っていて、平四郎がその美しいことに気づいていることを、さとっているものらしい。(室生犀星『杏っ子』1957年) |
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とてもよくわかるけど、これはちょっと判断にむずかしいところだな。このアマ!と内心思うにしろそれで嫌いになることはないね、ボクの場合は。犀星も実際のところはそうじゃなかっただろうか。
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そもそも女ってのは美人であろうとなかろうと
ほとんどがコケコッコーじゃないかね。
coquet という語がある。この語は coq から来ていて、一羽の雄鶏が数羽の牝鶏に取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的」を意味する。(九鬼周造『いきの構造』) |
媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。(九鬼周造『いきの構造』) |
何年か前、The Co(te)lette という映像作品を見て感心したことがあるが、女は意図の有無に関係なしにどうせコケットリーの存在なのだから、コケコッコーに居直ったらどう? というメッセージがあるんじゃないか。
そのご婦人は六十歳か、六十五歳くらいだったろう。ひろびろしたガラス窓を通して、パリがすっかり見えるモダンな建物の最上階にあるスポーツ・クラブのプールを前にして、長椅子に寝そべりながら、私は彼女をみつめていた。〔・・・〕 |
誰かに話しかけられて私の注意はそらされてしまった。そのあとすぐ、また彼女を観察したいと思ったとき、レッスンは終っていた。彼女は水着のままプール沿いに立ちさってゆくところで、水泳の先生の位置を四メートルか五メートルほど通りこすと、先生のほうをふりかえり、微笑し、手で合図した。私は胸がしめつけられた。その微笑、その仕草ははたちの女性のものだった! 彼女の手は魅惑的な軽やかさでひるがえったのだ。戯れに、色とりどりに塗りわけた風船を恋人めがけて投げたかのようだった。その微笑と仕草は魅力にみちていたが、それにたいして顔と身体にはもうそんなに魅力はなかった。それは身体の非=魅力のなかに埋もれていた魅力だった。もっとも、自分がもう美しくないと知っているにちがいなかったとしても、彼女はその瞬間にはそれを忘れていた。われわれは誰しもすべて、われわれ自身のなかのある部分によって、時間を越えて生きている。たぶんわれわれはある例外的な瞬間にしか自分の年齢を意識していないし、たいていの時間は無年齢者でいるのだ。いずれにしろ、水泳の先生のほうをふりかえり、微笑し、手を仕草をした瞬間(先生はもうこらえきらなくなり、吹きだしてしまった)、自分の年齢のことなど彼女はなにも知らなかった。その仕草のおかげで、ほんの一瞬のあいだ、時間に左右されたりするものではない彼女の魅力の本質がはっきり現われて、私を眩惑した。私は異様なほど感動した。(クンデラ『不滅』) |