犀星のこの二文なんて実によく現れているなあ
一人の愛人があればそこから十篇の短篇小説がうまれることは、たやすい、一人の女の人の持つ世界は十人の世界をも覗ぎ見られるものであつて、それ故にわれわれはいつも一人にしかあたへる愛情しかもつてゐない、そのたつた一人を尋ねまはってゐる人間は、死たばるまでつひにその一人にさへ行き会はずに、おしまひになる人間もゐるのである。われわれの終生たづね廻つてゐるただ一人のために、人間はいかに多くの詩と小説をむだ書きにしたことだらう、たとへば私なぞも、あがいてつひに何もたづねられなくて、多くの書物にもならない詩と小説のむだ書きを、生涯をこめて書きちらしてゐた、それは食ふためばかりではない、何とか自分にも他人にもすくひになるやうな一人がほしかつたのである。これは馬鹿の戯言であらうか、人間は死ぬまで愛情に飢ゑてある動物ではなかつたか(室生犀星『随筆 女ひと』1955年) |
|
われわれは何時も面白半分に物語を書いてゐるのではない。殊に私自身は何時も生母にあくがれを持ち、機会を捉へては生母を知らうとし、その人を物語ることをわすれないでゐるからだ。われわれは誰をどのやうに書いても、その誰かに何時も会ひ、その人と話をしてゐる必要があつたからだ。誰の誰でもない場合もあるが、つねにわれわれの生きてゐる謝意は勿論、名もない人に名といのちを与へて今一度生きることを仕事の上でも何時もつなかつて誓つてゐる者である。(室生犀星『かげろふの日記遺文』「あとがき」1959年) |
愛の作家というのは犀星だけでなく、読み込めばこういうものなのかもしれないけど、でもやっぱり犀星の場合は「生母への飢え」が際立っているには相違ない。
リビドーは、自己保存欲動における「飢え」のように、愛の力の表出と同じ意味である。Die Libido war in gleichem Sinne die Kraftäußerung der Liebe, wie der Hunger des Selbsterhaltungstriebes. (フロイト, “Psychoanalyse” und “Libido Theorie”, 1923) |
すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける。die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden(フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年) |
|
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
享楽の対象としてのモノは喪われた対象である。Objet de jouissance …La Chose …cet objet perdu(Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要) |
モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959) |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
|
現実界は書かれることを止めない le Réel ne cesse pas de s'écrire(Lacan, S 25, 10 Janvier 1978) |
フロイトにとって症状は反復強迫[compulsion de répétition]に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は無意識のエスの反復強迫に見出されると[le symptôme implique une fixation et que le facteur de cette fixation est à trouver dans la compulsion de répétition du ça inconscient (Wiederholungszwang des unbewußten Es)。. (J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique - 26/2/97) |
初期幼児期の愛の固着 frühinfantiler Liebesfixierungen.(フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年) |
要するに室生犀星は途轍もない回帰の作家だろうよ。
享楽はまさに固着にある。人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009) |
現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place » (Lacan, S16, 05 Mars 1969 ) |
|
愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015) |
私は、分析経験の基盤はフロイトが固着と呼んだものだと考えている。je le suppose, …est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
こういったことを示すと、文学を精神分析的に解釈しすぎると言う人が出てくるのだろうが、精神分析の最も基盤は、人が抑圧しているものーー原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe]=排除された欲動 [verworfenen Trieb]ーーを臨床的実践のなかで明らかにしたということであり、まともな作家ならかつてから、表現の仕方は異なるとはいえ、シカと示してきたものに過ぎない。