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2021年3月22日月曜日

犀星の『杏っ子』はよくない

 犀星の『杏っ子』ってのはよくないな。私はもともと日本の小説をたいして読むほうではなく、二十歳前後にいくらか集中して読んだ時期があるというだけでそれもおおむね文庫でだ。例外は高見順の『いやな感じ』、室生犀星の『杏っ子』ぐらいで、当時楽しんで読んでいた吉行淳之介か安岡章太郎かどちらかのエッセイで触れられていて、これは文庫がなかったせいでだろう、古本屋で探して手に入れた。特に『杏っ子』は、どういうわけか、娘の名が杏子(アンズ)なんだな、前妻が命名したのだけど。ボクの『フランソワ・ル・シャンピ』だよ。シャンゼリゼの雪がみえて冷静になれないね。


ある時期にわれわれが見たある物、われわれが読んだある本は、われわれのまわりにあったものにだけいつまでもむすびついているわけではなく、当時のわれわれがあった状態にも忠実にむすびついている。それがふたたびわれわれの手にもどるのは、もはや当時のわれわれの感受性、または当時のわれわれ自身によってでしかありえない。私が図書室にはいって、他の思考をつづけていても、『フランソワ・ル・シャンピ』をふたたび手にとると、ただちに私のなかに一人の少年が立ちあがり、私の位置にとってかわる。そんな少年だけが、ただひとり、『フランソワ・ル・シャンピ』という表題を読む権利をもっている、そしてそのときの庭の天気とおなじ印象、土地や生活についてそのころ抱いていた夢とおなじ夢、あすへのおなじ苦悩とともに、そのときに読んだ通りに、彼はそれを読むのだ。私がもしちがったときのある事物をふたたび目に見るとしたら、そのとき立ちあがるのは、また一人の年少者であるだろう。

きょうの私自身は、見すてられた一つの石切場にすぎず、その私自身はこう思いこんでいる、この石切場にころがっているものは、みんな似たりよったりであり、同一調子のものばかりだと。ところが、そこから、一つ一つの回想が、まるでギリシアの彫刻家のように、無数の像を切りだすのだ。私はいおう、――われわれがふたたび見る一つ一つの事物が、無数の像を切りだす、と。


たとえば本は、その点に関しては、事物としてこんなはたらきをする、すなわち、その背の綴目のひらきかたとか、その紙質のきめとかは、それぞれそのなかに、りっぱに一つの回想を保存していたのであって、当時の私がヴェネチアをどんなふうに想像していたか、そこに行きたいという欲望がどんなだったか、といったことのその回想は、本の文章そのものとおなじほど生き生きしている。いや、それ以上に生き生きしているとさえいおう、なぜなら、文章のほうは、ときどき障害を来たすからで、たとえばある人の写真をまえにしてその人を思いだそうとするのは、その人のことを思うだけでがまんしているときよりも、かえってうまく行かないのである。comme ces photographies d'un être devant lesquelles on se le rappelle moins bien qu'en se contentant de penser à lui. 


むろん、私の少年時代の多くの本、そして、ああ、ベルゴット自身のある種の本については、疲れた晩に、それらを手にとることがある、しかしそれは、私が汽車にでも乗って、旅先の異なる風物をながめ、昔の空気を吸って、気を休めたいと思ったのと変わりはなかった。しかも、求めてえられるその種の喚起は、本を長くよみつづけることで、かえってさまたげられることがあるものだ。ベルゴットの一冊にそんなのがある(大公の図書室にあるそれには、極端にへつらった俗悪な献辞がついていた)、それを私は、ジルベルトに会えなかった冬の一日に読んだ、そしていまは、あのように私が愛していた文章を、そこからうまく見つけだすことができない。いくつかの語が、その文章の個所を私に確信させそうだが、だめだ。私がそこに見出した美は一体どこへ行ったのか? しかしその書物自身からは、私がそれを読んだ日にシャン=ゼリゼをつつんでいた雪は、はらいのけられてはいなくて、私にはいつもその雪が目に見える。Mais du volume lui-même la neige qui couvrait les Champs-Élysées le jour où je le lus n'a pas été enlevée. Je la vois toujours. (プルースト「見出された時」)