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2021年3月18日木曜日

金と女


私がしばしば依拠するポール・バーハウだが、前回の「フェミニズムという宗教」というカミール・パーリアの観点を受け入れなら、いささかの修正が必要だな。


それほど昔の話ではない。社会が少なくとも4つの様相のあいだの相互作用によって決定づけられていたのは。政治的言説、宗教的言説(イデオロギー的言説)、文化的言説、経済的言説である(ここでの言説 discours とは「社会的結びつき lien social」の意味)。〔・・・〕


現在、一つを除きすべては消滅した。政治家は喜劇役者のかき集めである。宗教は性的虐待や自殺テロなどのイメージを喚起するばかり。文化については、人はみなアーティストだ。〔・・・〕


唯一支配的言説として居残っているのは経済である。われわれは新自由主義社会に生きている。ここではすべてが生産物となる。さらにこの社会は能力主義につながっている。人はみな自身の成功失敗に責任がある。独力で成功をおさめた者という神話の社会。あなたが成功すれば、自分自身に感謝を捧げる。あなたが失敗すれば、自分自身を責める。最も重要な規範は利益である。あなたが何をするにしろ金をもたらさねばならない。これがこの社会のメッセージである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe「新しい文化の中の居心地の悪さ on Civilisation's New Discontent2009年)


どうだろ? 現在の支配的イデオロギーってのは、結局、経済とポリコレフェミじゃないだろうか。それ以外になにかあるかね?


そもそもーー人はみなアーティストで、政治家がみな喜劇役者だけじゃなくーー、芸術家自体、喜劇役者にみえる時代だからな。


経済とフェミを「金と女」とすれば、実際のところは昔からそうだったのかもな(女のほうはここで言いたいのとはいささ違った意味であるとはいえ)。


太田南畝(蜀山人)の名句があるしな


世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし

世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい