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2021年3月19日金曜日

女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた

 少し前に掲げた文だが、いくらか前後をカットして再掲する。


ラカンは両性にとっての幻想の式を[$ ◊ a]と記した。Lacan…écrit S ◊ a pour les deux sexes. 〔・・・〕


しかし、もし性差にしたがって割り当てるなら、この定式は特に男性に適合している。他方、女性の側は、この小さなフェティッシュ(a)を斜線を引かれた大他者Ⱥに代替することが望ましい(すなわち女性の式は[$ ◊ Ⱥ])。


Mais, si elle est répartie selon les sexes, cette formule vaut spécialement pour l'homme, tandis que, du côté femme, il convient de substituer à ce petit a fétiche et muet le A barré,〔・・・〕


われわれは斜線を引かれた大他者Ⱥと記したが、実際は二つの相がある。一方は身体の享楽である、それがファルス器官に限られないという範囲で。ファルス器官の局地化された享楽から脱境界化する享楽である[la jouissance du corps, en tant qu'elle n'est pas limitée à l'organe phallique. C'est une jouissance qui déborde la jouissance localisée de l'organe phallique]。


しかし二番目に、ーーもっともラカンはそれを十分には記していないが、彼の言っていることからすべてがそこに集中するーーこの享楽はパロール享楽だということである[c'est la jouissance de la parole.]。


ラカンの命題においてパロール享楽は明瞭にシニフィアン自体のなかにある。このパロール享楽が特に補填的女性の享楽である。厳密にこの女性の享楽は被愛妄想的享楽である、その対象が話すことを要求するという意味で。[La thèse de Lacan, c'est que la jouissance de la parole, qui est évidemment là dans le signifiant comme tel, est spécialement cette jouissance féminine supplémentaire. C'est exactement la jouissance érotomaniaque, au sens où c'est une jouissance qui nécessite que son objet parle.  ]。


この被愛妄想的享楽に置いて、享楽は愛を通することが必要である。他方、男性側は、愛を通する必要はない。パロールの享楽を必要としない[C'est en cela que c'est une jouissance qui nécessite qu'on en passe par l'amour, alors que la jouissance côté mâle ne nécessite pas qu'on en passe par l'amour, elle ne nécessite pas la jouissance de la parole]。


フェティッシュの対象は愛の現前を必要としない。女性側では、愛が話すものである限りで、愛を通することが必要である。愛はパロールなしでは考えられない[L'objet fétiche ne nécessite pas la présence de l'amour, alors que, du côté femme, il faut en passer par l'amour en tant que l'amour parle, que l'amour n'est pas pensable sans la parole.]。(J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999, 摘要)




ここでジャック=アラン・ミレールの言っていることは、

・男性の式は[$ ◊ a]であり、フェティッシュで単純である。

・女性の式は[$ ◊ Ⱥ]だが、Ⱥには二重の価値があり、身体の享楽とパロール享楽(被愛妄想的享楽)だ、ということである。


身体の享楽はリアルな享楽自体であり、他方、パロール享楽は象徴界にある。女は究極の現実界と象徴界のあいだを揺れ動く存在ということになる(フェティッシュ自体、現実界の相があるとはいえ[参照]、身体の享楽のような現実界の深淵にはない)。



これは安吾が書いていることと実によく似ている。


女が真実を語るのは、言葉でなしに、からだでだ。(坂口安吾「恋をしに行く」1947年) 

素子とは何者であるか? 谷村の答へはたゞ一つ、素子は女であつた。そして、女とは? 谷村にはすべての女がたゞ一つにしか見えなかつた。女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた。この二つは同時に存し、そして全くつながりがなかつた。つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐるのだと谷村は思つた。   (坂口安吾「女体」1946年)