アンコールセミネールⅩⅩの、ラカンスキーマのなかではおそらく最もよく知られているだろう「性別化の式」は、現在、主流ラカン派では次のような理由で二次的なものとして扱われている。
性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。 Dans les formules de la sexuation, par exemple, il a essayé de saisir les impasses de la sexualité à partir de la logique mathématique. Cela a été une tentative héroïque pour faire de la psychanalyse une science du réel au même titre que la logique mais cela ne pouvait se faire qu'en enfermant la jouissance phallique dans un symbole. (⋯⋯結局、性別化の式は)、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃」のちに介入された「二次的構築物」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 」 、「論理なき現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。 …sexuation. C'est une conséquence secondaire qui fait suite au choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique. La logique arrive seulement après (J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年) |
この「性別化の式のデフレ」にともなって、「女性の享楽」の意味合いも大きく変わった。それについては、「ひとりの女は、男のなかにもいる「固着としての症状」である」にて比較的詳しく示してある。
この移行は基本的には、①新しい立場は現実界の享楽に対する防衛としてファルス享楽を捉える、②アンコールにおける立場は象徴界(言語秩序=ファルス秩序)の裂け目に現れるものとしてリアルな享楽を捉えるーーこの相違だが、われわれは通常は言語秩序に生きているわけで、②の性別化の式の観点が役に立たなくなったわけではまったくない。
その意味もあり、ここではジャック=アラン・ミレールが性別化の式は二次的ものだという前にはどんなことを言っていたのかを見てみることにする。基本的には、ラカンの1960年の次の言明に繋げての解釈である。
男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛妄想形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドライン Propos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年) |
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さて、ミレールの"Un répartitoire sexuel"(1999)の摘要訳である。原文は『愛の病い Maladies d'amour 』論集PDFにある。
ラカンの性別化の式の構造は、男女の性に固有の享楽を明示している。男性側において、享楽は有限的であり局地化されている[finie, elle est localisable]。これをラカンはファルス享楽[la jouissance phallique]として示した。女性側においては、享楽は無限である、少なくとも非局地化されているという意味で[ infinie, au moins au sens d'être non localisable]。この二つの享楽の形式はまた、ラカンによって区別された二つの愛の形式を説明する。すなわちラカンは1960年に男性のフェティッシュ形式と女性の被愛妄想形式と示した内容の説明である。 |
そして、我々は、この愛という語の背後に、フロイトのリーベ[Liebe]は、(ラカンの)愛、欲望、享楽をひとつの語で示していることを理解しなければならない[derrière ce mot d'amour il faut entendre le Liebe freudien, c'est-à-dire amour, désir et jouissance en un seul mot. ] |
1960年のラカンは、アンコールのセミネールにおいて展開され、パロール(話すこと)の短絡[court-circuit de la parole]にかかわる対象となる。フェティッシュの対象は典型的に話さない対象である[L'objet fétiche, c'est par excellence l'objet qui ne parle pas]。フェティッシュは、その享楽の要求において、パロールをゲームの外[la parole reste hors jeu]にする。 |
フェティッシュの対象の形式は男性の同性愛において限界まで突き進む。実に男性の同性愛の実践の徴は、その享楽への合意[l'accord pour la jouissance]において、徴候の交換によってなされ、愛のおしゃべりを完全に迂回する[se faire par un échange de signes qui court-circuite tout à fait le blablabla de l'amour, ]。一種の沈黙の認知、それが友愛の空気のネットワークを生む[une reconnaissance en quelque sorte muette, et qui donne au réseau ses airs de confrérie]。人はパロールなしで愛することができる[On peut faire l'amour sans parler]。 |
異性愛の男性は話す。彼らはそう余儀なくされるから話す。なぜなら彼らが要求されるのは、被愛妄想的対象だから[L'homme hétérosexuel, il cause. Il cause parce qu'il est obligé. Il cause parce que, de l'autre côté, ce qu'on exige c'est l'objet érotomaniaque.]。 女性の欲望の被愛妄想的対象は、大他者の形式、すなわち斜線を引かれた大他者[Ⱥ]の形式をもっている。他方、フェティッシュの対象は、対象aにて示される[L'objet érotomaniaque du désir de la femme, c'est un objet qui a au contraire la forme de l'Autre, c'est-à-dire qui a la forme de l'Autre barré [Ⱥ], tandis que l'objet fétiche, nous le représentons par petit a. ]。〔・・・〕 |
対象aは沈黙のエロスを条件付ける[L'objet petit a, ici, conditionne en quelque sorte une érotique du silence]。他方、被愛妄想的対象は、大他者のパロールがその享楽の本質的要素である[l'objet érotomaniaque, la parole de l'Autre est un élément intrinsèque de la jouissance. ] |
この理由で、男は享楽を持っており、女は愛を持っている[l'homme aura la jouissance et que la femme aura l'amour]ように見える。これはある程度、フェティッシュの対象と被愛妄想の対象の相違にある。こう言ったほうがよりよいだろう、女性の側では、愛が享楽のなかに織り込まれている[l'amour est tissé dans la jouissance]と。分離できない仕方でである。 この構成は、両性にとっての幻想の式の妥当性を疑問に付す。もちろん、ラカンは彼の図式において、両性にとっての幻想の式として[$ ◊ a]と記した[Cette construction est cohérente avec la notion qui met en question la validité de la formule du fantasme pour les deux sexes. Bien entendu, Lacan, dans l'élaboration qui est concentrée dans son graphe, écrit S ◊ a pour les deux sexes. ] このスキーマにおいて、つまり心的装置ではなく、大他者との関係のスキーマにおいて、ラカンはこの定式をユニセックスとして記述した。しかし、もし性差にしたがって割り当てるなら、この定式は特に男性に適合している。他方、女性の側は、この小さなフェティッシュ(a)を斜線を引かれた大他者Ⱥ、つまりパロールの欲望の大他者に代替することが望ましい(つまり女性の式[$ ◊ Ⱥ]:引用者)。 [Dans son schéma à lui, non pas de l'appareil psychique, mais du rapport à l'Autre, il inscrit cette formule comme unisexe. Mais, si elle est répartie selon les sexes, cette formule vaut spécialement pour l'homme, tandis que, du côté femme, il convient de substituer à ce petit a fétiche et muet le A barré[Ⱥ], cet Autre du désir qui a à parler] |
女性の享楽のエラボレーション[L'élaboration de la jouissance féminine]、それを簡略化するには、どの二項をベースにしたらよいのか。先ず我々が知っている差異がある。ファルス享楽と補填的享楽[la jouissance phallique et la jouissance supplémentaire]である。ラカンが言うように、この補填的享楽は女性に固有のものである。しかしそれに引き続く展開にわれわれは何を見るか。 この補填的享楽を、われわれは斜線を引かれた大他者Ⱥと記したが、実際は二つの相がある。一方は身体の享楽である、それがファルス器官に限られないという範囲で。ファルス器官の局地化された享楽から脱境界化する享楽である[la jouissance du corps, en tant qu'elle n'est pas limitée à l'organe phallique. C'est une jouissance qui déborde la jouissance localisée de l'organe phallique]。 しかし二番目に、ーーもっともラカンはそれを十分には記していないが、彼の言っていることからすべてがそこに集中するーーこの享楽はパロール享楽だということである[c'est la jouissance de la parole.]。 |
ラカンの命題においてパロール享楽は明瞭にシニフィアン自体のなかにある。このパロール享楽が特に補填的女性の享楽である。厳密にこの女性の享楽は被愛妄想的享楽である、その対象が話すことを要求するという意味で。[La thèse de Lacan, c'est que la jouissance de la parole, qui est évidemment là dans le signifiant comme tel, est spécialement cette jouissance féminine supplémentaire. C'est exactement la jouissance érotomaniaque, au sens où c'est une jouissance qui nécessite que son objet parle. ]。 |
この被愛妄想的享楽に置いて、享楽は愛を通することが必要である。他方、男性側は、愛を通する必要はない。パロールの享楽を必要としない[C'est en cela que c'est une jouissance qui nécessite qu'on en passe par l'amour, alors que la jouissance côté mâle ne nécessite pas qu'on en passe par l'amour, elle ne nécessite pas la jouissance de la parole]。 フェティッシュの対象は愛の現前を必要としない。女性側では、愛が話すものである限りで、愛を通することが必要である。愛はパロールなしでは考えられない[L'objet fétiche ne nécessite pas la présence de l'amour, alors que, du côté femme, il faut en passer par l'amour en tant que l'amour parle, que l'amour n'est pas pensable sans la parole.]。 |
我々は愛という。だが男性側の愛は、常に対象aが付加されて現れる。時に対象aを隠蔽する見せかけとして現れる[apparaît toujours comme un supplément de petit a, à l'occasion comme un semblant qui voile le petit a]。 他方、女性側の愛は、まったく異なった価値をもっている。女性側の愛は、真に被愛妄想的対象自体の構成物である[L'amour, du côté femme, est vraiment une composante de l'objet érotomaniaque lui-même.]。(J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999, 摘要) |
大他者の享楽[la jouissance de l'Autre]の遠近法において、人がシニフィアン・コミュニケーションから始めれば、大他者は大他者の主体[Autre sujet]である。その主体があなたに応答する。これはコードの場・シニフィアンの場である。しかし人が享楽から始めれば、大他者は大他者の性[Autre sexe]である。(Jacques-Alain Miller, Les six paradigmes de la jouissance,1999、摘要) |
大他者の享楽ーーこの機会に強調しておけば、ここでの大他者は「大他者の性」であり、さらに注釈するなら、大他者を徴示するのは身体である。la jouissance de l'Autre - avec le grand A que j'ai souligné en cette occasion - c'est proprement celle de « l'Autre sexe », et je commentais : « du corps qui le symbolise ». (ラカン, S20, 19 Décembre 1972) |
女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的です。女性は愛されたいのです。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです。この現象は、男たちが女たちに話しかける実践の基礎に横たわっています。la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste : elles veulent être aimées, et l'intérêt, l'amour qu'on leur manifeste, ou qu'elles supposent chez l'autre, est souvent une condition sine qua non pour déclencher leur amour, ou au moins leur consentement. Le phénomène est à la base de la drague masculine. (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年) |
被愛妄想的享楽=パロール享楽という観点からは、女性こそ十全なるファルス享楽の体現者ということになる。 |
ラカンは、大胆かつ論理的に、パロール享楽をファルス享楽と同じものとしている。ファルス享楽が身体と不一致するという理由で。jouissance de la parole que Lacan identifie, avec audace et avec logique, à la jouissance phallique en tant qu'elle est dysharmonique au corps. (J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlantpar 、2014) |
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実際、日常的にも臨床的にも、女性は男性以上に言語にどっぷり浸かっているという観察がなされているし、おそらく多くの人の実感でもそうだろう。
一見、女は自然・欲動・身体等を表し、男は文化・象徴的(言語的)・精神等を表しているようにみえる。だがこれは、日々の経験によっても、臨床実践によっても立証されない。 女性のエロティシズムと女性のアイデンティティは、男性よりもはるかにずっと象徴的なもの(言語的なもの)に引きつけられているように見える。聖書からであろうそうでなかろうと、女はおおむね、耳で考え言葉で誘惑される。 反対に、言語に媒介されない、身体的欲動に支配されたセクシャリティは、ゲイであろうとストレイトであろうと、はるかにずっと男性のエロティシズムの特徴にみえる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender, 2004年) |
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フェミニスト等によってロマンチックに語られてきた面もある「性別化の式」観点での「女性の享楽」とは、少し読み込めば、トンデモ享楽という相(アスペクト)がないではないのである(あくまで「ひとつの相」であり、女性における被愛妄想的享楽とは、発達段階における構造的起源や言語秩序における女性の表象の排除の起源もありーー女性のシニフィアンの排除の穴[trou de la forclusion de La femme](Catherine Bonningue, Un « roque » final, 2012)ーー、全的に否定してはけっしてならないと私は考えているが)。
ラカン曰く、《愛を語ること自体が享楽である Parler d'amour est en soi une jouissance》(S20, 13 Mars 1973)。しかし、愛のパロール[ la parole d'amour] はけっして真理の言葉ではない。パートナーについて語っているという思い込みは、実は、主体が己れの享楽との関係に満足を与えているにすぎない。ラカンはあれやこれやと言う…。結論。《愛は不可能である L'amour est impossible》。 いくつものセリエが重なってゆく。ナルシシズム、嘘吐き、錯誤、喜劇、不可能[narcissique, menteur, illusoire, comique, impossible.]。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011) |
パロールは寄生虫。パロールはうわべ飾り。パロールは人間を悩ます癌の形式である。La parole est un parasite. La parole est un placage. La parole est la forme de cancer dont l'être humain est affligé.(Lacan, S23, 17 Février 1976) |