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2020年11月18日水曜日

ひとりの女は、男のなかにもいる「固着としての症状」である

 セミネール20「アンコール」ーーここまでは「中期ラカン」であるーーこのアンコール以後のいわゆる「後期ラカン」は、次のように言った。

ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)

ひとりの女は他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Lacan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 1975)

穴を為すものしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)


ーー《現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».》(ラカン、S21、19 Février 1974)


ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)





ラカンがこのように言うとき、そのすべては「ひとりの女は固着としての症状」ということである。ひとりの女は、解剖学的女性ではけっしてなく、男も女もみな自らのなかに「ひとりの女」をもっているということである。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要)


※参照:リビドー固着の残滓としての異物[Fremdkörper als Reste der Libidofixierungen]


何度も列挙した文だが、ここでもふたたび簡潔に掲げよう。


疑いもなく、症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)

フロイトが固着と呼んだもの。われわれは、無意識の最もリアルなものは、享楽の固着だと考えねばならない。ce que Freud appelait […] la fixation. Il faut considérer que ce qui a de plus réel de l'inconscient, c'est une fixation de jouissance.(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)

分析経験の基盤、それはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。fondée dans l'expérience analytique, […]précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

精神分析における主要な現実界の顕れは、固着としての症状・シニフィアンと享楽の結合 としての症状である。l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion, coalescence de signifant et de jouissance; (コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)


繰り返せば、リアルな症状(サントーム)としての「ひとりの女」は、誰もがもっている固着としての症状である。


ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状(誰にでもある症状)である。Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé,  (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)

サントームは反復享楽であり、S2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)




固着とは、身体の上への刻印である。この刻印は、乳幼児の最初の世話役である母もしくは母親役の人物の徴である。これが母なる超自我によるリビドー固着(享楽の固着)である。


このところ、


「超自我と原抑圧との一致」

「母なるシニフィアンと母なる超自我」

「女というものは、超自我の別名である」

「「人間のパートナーは言語」のボロメオ変奏スキーマ」


で示したことを簡単に言えば、超自我とは母なる超自我であり、超自我=原抑圧=固着である。これが現代ラカン派において「症状のない主体はない」(参照)というときの、原症状としてのサントームあるいは女性の享楽である。


そしてこの前提を受け入れるなら、「女性の享楽」とは、事実上、母なる女による身体の上への刻印を通した反復強迫症状となる。


前回示した図を援用すれば、女性の享楽のポジションは超自我の場にある。





そう、人はみな自我の異郷に隠された「女性の享楽」を持っている。原大他者としての母なる超自我によって身体の上に刻印された「ひとりの女」としての症状をもっている。


ラカンのアンコールセミネールまでの「女性の享楽」ーー今までのラカン注釈書ではこの女性の享楽ばかりが語られてきたがーーそれは間違っている、、いやそこまで言うつもりはないが、真のフロイトラカン的精神分析の核心を外した、せいぜい二次的なものに過ぎない。



何度も何度も強調しておこう。


症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN,   30 Nov 1974)

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)


この二文が「ひとりの女」の簡潔な定義である。


そしてこのリアルな水準における身体の上への刻印を固着と呼ぶのである。


症状は固着である。Le symptôme, c'est la fixation (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 - 26/03/2008)


この固着は無意識のエスの反復強迫を生む。それはトラウマの反復強迫ーー事故的トラウマではなく、欲動にかかわる構造的トラウマの反復である。


現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

症状は、現実界について書かれることを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

フロイトにとって症状は反復強迫[compulsion de répétition]に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]に見出されると。フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は、行使されることを止めないもの[ne cesse pas de s'exercer]である. (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)


おわかりだろうか、ひとりの女は反復強迫する。


サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


女性の享楽とは無意識のエスの反復強迫なのである。


サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)

純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)

サントームという本来の享楽 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)


女性の享楽はエディプスの彼岸にある享楽自体である。


女性の享楽は非エディプス的享楽であり、エディプス機械の外部として捉えられる。女性の享楽は、身体の出来事に還元される享楽である。la jouissance féminine […]c'est la non-Oedipal jouissance, c'est la jouissance non œdipienne, la jouissance conçue […] comme en-dehors de la machinerie de l'Œdipe. C'est la jouissance réduite à l'événement de corps. (ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, - L'Être et l'Un, 2/3/2011)

確かにラカンは第一期に「女性の享楽 jouissance féminine」の特性を「男性の享楽jouissance masculine」との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


女性の享楽は構造的トラウマの反復強迫である。


享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にあり、固着の対象である。ラカンはこの身体の出来事を女性の享楽と同一のものとした。la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est […]  de l'ordre du traumatisme,[…] elle est l'objet d'une fixation. […] Lacan… a pu dégager comme telle la jouissance féminine, (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


これらは死の年のフロイトの記述にすべてある。


トラウマは自己身体の上への出来事 もしくは感覚知覚 である。〔・・・〕これは、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]と「反復強迫[Wiederholungszwang]の名の下に要約される。それは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印[unwandelbare Charakterzüge]と呼びうる。


Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen, […] Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への従属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)