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2020年11月19日木曜日

男は女からけっして自由になれない

ボクはちょっとしたカミール・パーリアのファンなんだけどーー彼女の書を多く読んでいるわけではないがーー何よりもまずパーリアが『性のペルソナ』で次のように言ったのは、実に正しい。

どの男も、母に支配された内部の女性的領域に隠れ場をもっている。男はそこから完全には決して自由になれない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)



前回示したボロメオの環の通りだね、これは。





超自我=女性の享楽のポジションは、原大他者という母なる超自我による身体の上への刻印を通した無意識のエスの反復強迫なのだから、パーリアの言っていることとピッタンコだ。男も女もこの母なる女の徴の反復享楽をもっている。結局、ラカン的主体とは母なる超自我であるーー、次の初期ミレールは正しい、《超自我は斜線を引かれた主体と書きうる、le surmoi peut s'écrire $  》(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)。


たとえば人がツイッターでパクパクやっている根には母なる超自我がある。そう見てみるとエラそうだったりおバカそうだったりする囀りも愉快に見えてくるよ。もちろん蚊居肢ブログの記述も同様。蚊居肢とは母なる肢の間をウロウロ旋回している蚊のことだ。


話を戻せば、パーリアが1990年に言ったことは、現代ラカン派においては、ようやく2010年前後からこれが鮮明化されてきたのだから、20年遅れだな。


彼女はニーチェとフロイトーーそれにサドーーの熱心な読者であり、次のように言っている「フェミニスト」だ。


ラカンなんか読んだら、あんたたちを脳軟化症にするわ! if you read Lacan…Your brain turns to pudding! (Camille Paglia、Crisis In The American Universities, 1992)

フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)

ニーチェの後継者としてのフロイト Freud, Nietzsche's heir (カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)



パーリアの言っていることを穏やかに翻訳すれば、ラカンなんか読んでないで、ニーチェとフロイトをしっかり読みなさい、ってことだ。


何はともあれ、21世紀の男女関係を考える上にフェミニズムを外したらまったくダメだ。フェミニズムにまったく関係がないように見えるテキストでさえ、その底にはフェミニズムがある、つまりある時期以降の支配的イデオロギーとしてのフェミニズムが秘かに大きな影響を与えている。とくに70年以降のテキストを読む上ではこの認識が欠かせない。現代の学者たちのテキストは、ことごとくフェミニズムによって去勢されている。これはラカン派のテキストでももちろんそうだ。だいたいフェミに遠慮して書かないと本は売れなくなる。仕事がし辛くなる。


重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)



少し前、女やら女の身体やらを語っておきながら、アタシはフェミニズムなんかにに関心がないわ、などというひとがいたが、こういった人はたんなる阿呆鳥にすぎない。物心ついた年以降、学校などで《我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられている》フェミニズムに支配されて我々は生きている。





反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。(…)

世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察 unzeitgemässe Betrachtung』1876年)


真のフェミニストであるためには、ドグマフェミニズムを徹底的に叩かねばならない。そこにしか来るべき男女関係の模索への道はない。


私は全きフェミニストだ。

他のフェミニストたちが私を嫌う理由は、私が、フェミニスト運動を修正が必要だと批判しているからだ。

フェミニズムは女たちを裏切った。男と女を疎外し、ポリティカルコレクトネス討論にて代替したのである。(カミール・パーリア 、プレイボーイインタヴュー、1995年)


フェミニズムは死んだ。運動は完全に死んでいる。女性解放運動は反対者の声を制圧しようとする道をあまりにも遠くまで進んだ。異をとなえる者を受け入れる余地はまったくない。まさに意地悪女 Mean Girls のようだ。彼女たちが私のいうことを聞いていたなら、船は正しい方向に舵をとったのだが。…(連中は)私のことをフェミニストではないとまだ言っている⋯⋯フェミニストのイデオロギーは、数多くの神経症女の新しい宗教のようなものだ。(Camille Paglia on Rob Ford, Rihanna and rape culture、2013)


女性研究は、チャレンジなきグループ思考という居ごこちよい仲良し同士の沼沢地である。それは、稀な例外を除き、まったく学問的でない。アカデミックなフェミニストたちは、男たちだけでなく異をとなえる女たちを黙らせてきた。(Camille Paglia, Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism, 2018)