すべてを疑え!(デー・オムニブス・ドゥビタンドゥム De omnibus dubitandum)(マルクス(妹とたちの問いに答えて)1865) |
すべてを疑おうとする者は、どんな疑いにも辿りつけない。疑いのゲーム自体、すでに確実性を前提としている。Wer an allem zweifeln wollte, der würde auch nicht bis zum Zweifel kommen. Das Spiel des Zweifelns selbst setzt schon die Gewißheit voraus(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』115番) |
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ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある[der Bann bestimmter grammatischer Funktionen ist im letzten Grunde der Bann physiologischer Werthurtheile und Rasse-Bedingungen. -](ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1886年) |
言葉のうえだけの「理性」、おお、なんたる年老いた誤魔化しの女であることか! 私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを・・・Die »Vernunft« in der Sprache: o was für eine alte betrügerische Weibsperson! Ich fürchte, wir werden Gott nicht los, weil wir noch an die Grammatik glauben...(ニーチェ「哲学における「理性」」5『偶像の黄昏』所収) |
ーーここでニーチェは何を言っているのか? 文法は神だと言っていないだろうか? 文法なる神が存在しなかったら人は疑いえない。 |
フロイトラカンにとって言語は我々の支配者である。 |
フロイトの視点に立てば、人間は言語によって檻に入れられ拷問を被る主体である。Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン, S3, 16 mai 1956) |
この支配者は神と呼んでもよろしい。 |
イヴァン・カラマーゾフの父は、イヴァンに向けてこう言う、《もし神が存在しないなら、すべては許される [Si Dieu n'existe pas - dit le père - alors tout est permis]》 これは明らかにナイーヴである。われわれ分析家はよく知っている、《もし神が存在しないなら、もはや何もかも許されなくなる [si Dieu n'existe pas, alors rien n'est plus permis du tout]》ことを。神経症者は毎日、われわれにこれを実証している[Les névrosés nous le démontrent tous les jours]。(ラカン, S2, 16 Février 1955) |
無神論の真の公式 は「神は死んだ」ではなく、「神は無意識的」である。la véritable formule de l'athéisme n'est pas que « Dieu est mort »… la véritable formule de l'athéisme c'est que « Dieu est inconscient ». (ラカン, S11, 12 Février 1964) |
だが無意識的な神としての支配者とは、ある時期以降のラカンにとって超自我となってゆく。 |
一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である。on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970) |
ラカンは「神の仮説」を語っている。 |
神は、間違いなく次の場にある、すなわち、もし私にこの言葉遊びが許されるのなら、le dieu―le dieur―le dire (神ー神語るー語る)がそれ自体を生みだす。話すことは無から神を創りだす。何かが言われる限り、神の仮説[l'hypothèse Dieu ]はそこにあるだろう。 Dieu est proprement le lieu où si vous m'en permettez le terme, se produit le dieu, le dieur, le dire. Pour un rien, le dire ça fait Dieu. Aussi longtemps que se dira quelque chose, « l'hypothèse Dieu » sera là. (ラカン, S20, 16 Janvier 1973) |
(私が「神の仮説」を言ったことにより)自ずと、君たちすべては、私が神を信じている、と確信してしまうんだろう、(が)私は、斜線を引かれた女性の享楽を信じているんだよMoyennant quoi naturellement vous allez être tous convaincus que je crois en Dieu : je crois à la jouissance de « Lⱥ femme » 」(ラカン, S20, 20 Février 1973) |
なぜ人は「大他者の顔」、つまり「神の顔」を、女性の享楽によって支えられているものとして解釈しないのか?Et pourquoi ne pas interpréter une face de l'Autre, la face de Dieu…une face de Dieu comme supportée par la jouissance féminine, hein. (Lacan, S20, 20 Février 1973) |
S(Ⱥ) にて示しているものは「斜線を引かれた女性の享楽」に他ならない。たしかにこの理由で、神はいまだ退出していないと私は指摘する。S(Ⱥ) je n'en désigne rien d'autre que la jouissance de LȺ Femme, c'est bien assurément parce que c'est là que je pointe que Dieu n'a pas encore fait son exit. (ラカン, S20, 13 Mars 1973) |
これらから読み取れるのは、ラカンは「神の仮説」と「女性の享楽」を等置していることだ。そして神とは実際は「超自我」であるなら、女性の享楽=超自我となる。 |
さらにこうもある。 |
女というものは神の別の名である。それゆえに女というものは存在しないのである。La femme […] est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas. (Lacan, S23, 18 Novembre 1975) |
大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)… 「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女というものだということである。 il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]… La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン, S23, 16 Mars 1976) |
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ)(ラカン, S24, 08 Mars 1977) |
女というものは存在しない神である。だが存在しないとは象徴秩序(言語秩序)には存在しないということであり、言語外、つまりリアル(現実界)における有無は言っていない。 |
女というものは存在しない。女たちはいる。La femme n'existe pas. Il y des femmes,(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975) |
こうしてラカンは次のように言うことになる。 |
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ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975) |
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ひとりの女は他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Lacan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 1975) |
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穴を為すものしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974) |
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ーー《現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».》(ラカン、S21、19 Février 1974) |
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ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976) |
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ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté. (Lacan, S25, 11 Avril 1978) |
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これらの「ひとりの女」とは、現実界の水準にある「原抑圧=固着」のことである。 |
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原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要) |
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要するにひとりの女は解剖学的女ではけっしてない。 |
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そしてこの原抑圧=固着が、原大他者としての母=母なる超自我による身体の上への刻印なのである。ーー《超自我と原抑圧との一致がある。 il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire. 》(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982) さらに「ひとりの女は、男のなかにもいる「固着としての症状」である」で示したように、ひとりの女の症状、あるいは女性の享楽は、フロイトの「無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]」である。
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