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2020年11月20日金曜日

神の仮説

 

すべてを疑え!(デー・オムニブス・ドゥビタンドゥム De omnibus dubitandum)(マルクス(妹とたちの問いに答えて)1865)

すべてを疑おうとする者は、どんな疑いにも辿りつけない。疑いのゲーム自体、すでに確実性を前提としている。Wer an allem zweifeln wollte, der würde auch nicht bis zum Zweifel kommen. Das Spiel des Zweifelns selbst setzt schon die Gewißheit voraus(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』115番)



…………


ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある[der Bann bestimmter grammatischer Funktionen ist im letzten Grunde der Bann physiologischer Werthurtheile und Rasse-Bedingungen. -](ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1886年)

言葉のうえだけの「理性」、おお、なんたる年老いた誤魔化しの女であることか! 私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを・・・Die »Vernunft« in der Sprache: o was für eine alte betrügerische Weibsperson! Ich fürchte, wir werden Gott nicht los, weil wir noch an die Grammatik glauben...(ニーチェ「哲学における「理性」」5『偶像の黄昏』所収)


ーーここでニーチェは何を言っているのか? 文法は神だと言っていないだろうか? 文法なる神が存在しなかったら人は疑いえない。


フロイトラカンにとって言語は我々の支配者である。


フロイトの視点に立てば、人間は言語によって檻に入れられ拷問を被る主体である。Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン, S3, 16 mai 1956)



この支配者は神と呼んでもよろしい。


イヴァン・カラマーゾフの父は、イヴァンに向けてこう言う、《もし神が存在しないなら、すべては許される [Si Dieu n'existe pas - dit le père - alors tout est permis]》


これは明らかにナイーヴである。われわれ分析家はよく知っている、《もし神が存在しないなら、もはや何もかも許されなくなる [si Dieu n'existe pas,  alors rien n'est plus permis du tout]》ことを。神経症者は毎日、われわれにこれを実証している[Les névrosés nous le démontrent tous les jours]。(ラカン, S2, 16 Février 1955)    

無神論の真の公式 は「神は死んだ」ではなく、「神は無意識的」である。la véritable formule de l'athéisme n'est pas que  « Dieu est mort »… la véritable formule de l'athéisme c'est que « Dieu est inconscient ». (ラカン, S11, 12 Février 1964)



だが無意識的な神としての支配者とは、ある時期以降のラカンにとって超自我となってゆく。


一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である。on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970)


ラカンは「神の仮説」を語っている。


神は、間違いなく次の場にある、すなわち、もし私にこの言葉遊びが許されるのなら、le dieu―le dieur―le dire (神ー神語るー語る)がそれ自体を生みだす。話すことは無から神を創りだす。何かが言われる限り、神の仮説[l'hypothèse Dieu ]はそこにあるだろう。


Dieu est proprement le lieu où si vous m'en permettez le terme, se produit le dieu, le dieur, le dire. Pour un rien, le dire ça fait Dieu.  Aussi longtemps que se dira quelque chose, « l'hypothèse Dieu » sera là.  (ラカン, S20, 16 Janvier 1973)

(私が「神の仮説」を言ったことにより)自ずと、君たちすべては、私が神を信じている、と確信してしまうんだろう、(が)私は、斜線を引かれた女性の享楽を信じているんだよMoyennant quoi naturellement vous allez être tous convaincus que je crois en Dieu : je crois à la jouissance de « L femme » 」(ラカン, S20, 20 Février 1973)

なぜ人は「大他者の顔」、つまり「神の顔」を、女性の享楽によって支えられているものとして解釈しないのか?Et pourquoi ne pas interpréter une face de l'Autre, la face de Dieu…une face de Dieu comme supportée par la jouissance féminine, hein.  (Lacan, S20, 20 Février 1973)

S(Ⱥ) にて示しているものは「斜線を引かれた女性の享楽」に他ならない。たしかにこの理由で、神はいまだ退出していないと私は指摘する。S(Ⱥ) je n'en désigne  rien d'autre que la jouissance de LȺ Femme, c'est bien assurément parce que c'est là que je pointe que Dieu n'a pas encore fait son exit. (ラカン, S20, 13 Mars 1973)


これらから読み取れるのは、ラカンは「神の仮説」と「女性の享楽」を等置していることだ。そして神とは実際は「超自我」であるなら、女性の享楽=超自我となる。


さらにこうもある。


女というものは神の別の名である。それゆえに女というものは存在しないのである。La femme […] est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas. (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)

大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)…


「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女というものだということである。


il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…


La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  (ラカン, S23, 16 Mars 1976)

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ)(ラカン, S24, 08 Mars 1977)


女というものは存在しない神である。だが存在しないとは象徴秩序(言語秩序)には存在しないということであり、言語外、つまりリアル(現実界)における有無は言っていない。


女というものは存在しない。女たちはいる。La femme n'existe pas. Il y des femmes,(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)




こうしてラカンは次のように言うことになる。


ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)

ひとりの女は他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Lacan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 1975)

穴を為すものしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)


ーー《現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».》(ラカン、S21、19 Février 1974)


ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)


これらの「ひとりの女」とは、現実界の水準にある「原抑圧=固着」のことである。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要)


要するにひとりの女は解剖学的女ではけっしてない。


そしてこの原抑圧=固着が、原大他者としての母=母なる超自我による身体の上への刻印なのである。ーー《超自我と原抑圧との一致がある。 il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.  》(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)



さらに「ひとりの女は、男のなかにもいる「固着としての症状」である」で示したように、ひとりの女の症状、あるいは女性の享楽は、フロイトの「無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]」である。



なんとここで唐突ながら、ふたたびニーチェに回帰するのである。フロイトの無意識のエスの反復強迫こそ、ニーチェの永遠回帰である(参照:永遠回帰は異者のレミニサンスである)。


フロイトのエスはもちろんニーチェのエス=悦である。


ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜の眠らぬ魂のなかに忍んでくる、ああ、ああ、なんという吐息をもたらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

– nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!


ーーおまえには聞えぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかいるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? おお、人間よ、心して聞け!

– hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu dir redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! 

(ニーチェ 『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第3節、1885年)

悦 Lustが欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。――


- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)


「もちろん」と記したが、もちろんほとんどの人、ニーチェ学者たちも含め、それをいまだ知らない。


いやシツレイしました、みなさんにまったく興味がないだろうことを記してしまって。このブログはーー・・・


この書物はごく少数の人たちのものである。おそらく彼らのうちのただひとりすらまだ生きてはいないであろう。それは、私のツァラトゥストラを理解する人たちであるかもしれない。今日すでに聞く耳をもっている者どもと、どうして私がおのれを取りちがえるはずがあろうか? ――やっと明後日が私のものである。父亡きのちに産みおとされる者もいく人かはいる。


人が私を理解し、しかも必然性をもって理解する諸条件、――私はそれを知りすぎるほどしっている。人は、私の真剣さに、私の激情にだけでも耐えるために、精神的な事柄において冷酷なまでに正直でなければならない。人は、山頂で生活することに、――政治や民族的我欲の憐れむべき当今の饒舌を、おのれの足下にながめることに、熟達していなければならない。人は無関心となってしまっていなければならない、はたして真理は有用であるのか、はたして真理は誰かに宿業となるのかとけっして問うてはならない・・・今日誰ひとりとしてそれへの気力をもちあわせていない問いに対する強さからの偏愛、禁ぜられたものへの気力、迷宮へと予定されている運命[die Vorherbestimmung zum Labyrinth]、七つの孤独からの或る体験。新しい音楽を聞きわける新しい耳、最遠方をも見うる新しい眼。これまで沈黙しつづけてきた真理に対する一つの新しい良心。そして大規模な経済への意志、すなわち、この意志の力を、この意志の感激を手もとに保有しておくということ・・・おのれに対する畏敬、おのれへの愛、おのれへの絶対的自由・・・


いざよし![Wohlan! ]このような者のみが私の読者、私の正しい読者、私の予定されている読者である。残余の者どもになんのかかわありがあろうか? ――残余の者どもはたんに人類であるにすぎない。――人は人類を、力によって[durch Kraft]、魂の高さによって[durch Höhe der Seele]、凌駕していなければならない、――軽蔑 [Verachtung]によって・・・(ニーチェ「反キリスト」序言、1888年)


さらに「もちろん」、ここでの「迷宮へと予定されている運命[die Vorherbestimmung zum Labyrinth]」とは、例の「運命愛」ーー性格の悪いフロイトは「運命強迫」と言い換えていますーー、ディオニソス、アリアドネ、迷宮[Dionysos, Ariadne, Labyrinth]の三幅対であり、これこそ永遠回帰である・・・






「もちろん」、女性の享楽こそ永遠回帰であることをニーチェは告白している・・・

しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ [Aber ich bekenne, dass der tiefste Einwand gegen die »ewige Wiederkunft«, mein eigentlich abgründlicher Gedanke, immer Mutter und Schwester sind―]。 (ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第8節--妹エリザベートによる差し替え前版、1888年)




と記していたら「母の名」を思い出したので、ここで「参考のために」貼り付けておこう。



ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神 la déesse maternelle だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名Le Nom de Mère である。(J.-A. Miller, The Non-existent Seminar 、1991)





ロバート・グレーヴスが定式化したように、父自身・我々の永遠の父は、白い女神の諸名のひとつに過ぎない。comme le formule Robert Graves, le Père lui-même, notre père éternel à tous, n'est que Nom entre autres de la Déesse blanche, (ラカン、AE563, Le 1er septembre 1974)


シツレイしました、明らかにイミフだろう図を貼りつけて。でも原症状としての女性の享楽はよくありません。穴に吸い込まれます(穴の深淵には死しかありません)。神経症的父の隠喩もよくありません。大他者の信者やら愛の信者やらになってしまいます(騙されて痛い目に遭います)。みなさん、間にある「父の版の倒錯」に励みましょう・・・これこそ原症状=固着としてのサントームから距離を置く別のサントームです(参照)。


倒錯とは、父に向かうヴァージョン [version vers le père]以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である[le père est un symptôme]。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい [ou un sinthome, comme vous le voudrez]。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)



と記していたらまた思い出した、ツァラトゥストラの信者になってもニーチェの信者になってもダメです。



わたしを離れて去れ geht fort von mir 

弟子たちよ、わたしはこれから独りとなって行く。君たちも今は去るがよい、しかもおのおのが独りとなって。そのことをわたしは望むのだ。


Allein gehe ich nun, meine Jünger! Auch ihr geht nun davon und allein! So will ich es.


まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたのかもしれぬ。


Wahrlich, ich rathe euch: geht fort von mir und wehrt euch gegen Zarathustra! Und besser noch: schämt euch seiner! Vielleicht betrog er euch. 

認識の徒は、おのれの敵を愛することができるばかりか、おのれの友を憎むことができなくてはならぬ。


Der Mensch der Erkenntnis muß nicht nur seine Feinde lieben, sondern auch seine Freunde hassen können.


いつまでもただ弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜ君たちはわたしの花冠をむしり取ろうとしないのか。


Man vergilt einem Lehrer schlecht, wenn man immer nur der Schüler bleibt. Und warum wollt ihr nicht an meinem Kranze rupfen?


君たちはわたしを敬う。しかし、君たちの尊敬がくつがえる日が来ないとはかぎらないのだ。そのとき倒れるわたしの像の下敷きとならないように気をつけよ。


Ihr verehrt mich; aber wie, wenn eure Verehrung eines Tages umfällt? Hütet euch, daß euch nicht eine Bildsäule erschlage!


君たちは言うのか、ツァラトゥストラを信じると。しかし、ツァラトゥストラそのものに何の意味があるのか。君たちはわたしの信徒だ。だが、およそ信仰というものに何の意味があるのか。


Ihr sagt, ihr glaubt an Zarathustra? Aber was liegt an Zarathustra? Ihr seid meine Gläubigen: aber was liegt an allen Gläubigen!


君たちはまだ君たち自身をさがし求めなかった。さがし求めぬうちにわたしを見いだした。信徒はいつもそうなのだ。だから、信ずるというのはつまらないことだ。


Ihr hattet euch noch nicht gesucht: da fandet ihr mich. So tun alle Gläubigen; darum ist es so wenig mit allem Glauben.


いまわたしは君たちに命令する。わたしを捨て、君たち自身を見いだすことを。そして、君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう……


Nun heisse ich euch, mich verlieren und euch finden; und erst, wenn ihr mich Alle verleugnet habt, will ich euch wiederkehren...


(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「贈り与える徳 Von der schenkenden Tugend 」1883年)


ところで「わたしを離れて去れ」と言っておけば、人はさらにいっそう信者になってしまうのです。これこそ至高の誘惑方法です・・・フーコー、ドゥルーズ、デリダ等、仏現代思想のコモノたちはみんなこれにひっかかりました・・・この手口にくれぐれもお気をつけを!



誘惑の神 der Versucher-Gott 

あの世に隠れた偉大な者に比すべき心情の天才。かれは、誘惑の神であり、良心というネズミをとることにかけては、生まれながらの名人である。その声は、あらゆる魂の深層にまで降ってゆくことができる。かれが一語を洩らすとき、一暫を投げるとき、そこにはかならず誘惑をたくらむ心のひだがある。彼の至芸の一つは、自分をあれこれに見せかける術であるーー彼の本体を見せるのではない。その上、彼に従う者たちに強制的な力をおよぼして、ますます彼の身辺に殺到し、ますます徹底して、かれに信服するようにさせるのである……


Das Genie des Herzens, wie es jener grosse Verborgene hat, der Versucher-Gott und geborene Rattenfaenger der Gewissen, dessen Stimme bis in die Unterwelt jeder Seele hinabzusteigen weiss, welcher nicht ein Wort sagt, nicht einen Blick blickt, in dem nicht eine Ruecksicht und Falte der Lockung laege, zu dessen Meisterschaft es gehoert, dass er zu scheinen versteht - und nicht Das, was er ist, sondern was Denen, die ihm folgen, ein Zwang mehr ist, um sich immer naeher an ihn zu draengen, um ihm immer innerlicher und gruendlicher zu folgen:


こういう心情の天才。かれは、すべての声高なもの、うぬぼれているものを黙らせて、かれに傾聴させる。粗暴な魂をなめらかにし、それに新しい願望ーー鏡のように静かに横たわって、深い空を映したいという願望を つくづくと味わわせる……。


-das Genie des Herzens, das alles Laute und Selbstgefaellige verstummen macht und horchen lehrt, das die rauhen Seelen glaettet und ihnen ein neues Verlangen zu kosten giebt, - still zu liegen wie ein Spiegel, dass sich der tiefe Himmel auf ihnen spiegele -; 


こういう心情の天才。かれは、 武骨で性急な手に、ためらうこと、もっとしなやかに掴むことを教える。かれは、隠され忘れられていた宝、一滴の慈愛と甘美な霊性を、にごった厚い氷の下にかぎあてる。多量の泥と砂の牢獄のなかに久しくうずもれていた黄金の粒を、一つぶもあまさず探り当てる魔法の杖に似ている。…


das Genie des Herzens, das die toelpische und ueberrasche Hand zoegern und zierlicher greifen lehrt; das den verborgenen und vergessenen Schatz, den Tropfen Guete und suesser Geistigkeit unter truebem dickem Eise erraeth und eine Wuenschelruthe fuer jedes Korn Goldes ist, welches lange im Kerker vielen Schlamms und Sandes begraben lag; 


こういう心情の天才。かれに触れた者は誰しも、豊かさを増して帰ってゆく。思いがけず恩龍にあずかったというふうにではなく、他人から財宝を恵まれて、それが重荷になるというふうにでもない。そうではなくて、自分自身がいっそう豊かになり、新しい自分になり、うち開かれ、氷雪をとかす暖風に吹かれて胸の秘密をもらし、おそらくは今までよりいっそいおぼつかなく、いっそう感じやすく、いっそうもろく、いっそう打ちくだかれた状態にはなるが、しかし、また名付けようもない希望にみち、新しい意志と奔流にみち、新しい不満と逆流にみちてくる……


das Genie des Herzens, von dessen Beruehrung jeder reicher fortgeht, nicht begnadet und ueberrascht, nicht wie von fremdem Gute beglueckt und bedrueckt, sondern reicher an sich selber, sich neuer als zuvor, aufgebrochen, von einem Thauwinde angeweht und ausgehorcht, unsicherer vielleicht, zaertlicher zerbrechlicher zerbrochener, aber voll Hoffnungen, die noch keinen Namen haben, voll neuen Willens und Stroemens, voll neuen Unwillens und Zurueckstroemens......

(ニーチェ『善悪の彼岸』295番、1886年)