前回示した図をもう少し細かく見てみよう。
身体の享楽[la jouissance du corps]は、享楽自体であり、穴の享楽[la jouissance du trou]と言い換えうる。 |
身体は穴である。le corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
享楽は、抹消として、穴として示される他ない。 la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
そしてパロール享楽はミレール注釈にあったように被愛妄想的享楽[la jouissance érotomaniaque]である。つまりこう示せる。 |
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下段の赤字はラカンの次の発言に相当するとしてよいだろう。 |
愛は穴を穴埋めする。l'amour bouche le trou.(Lacan, S21, 18 Décembre 1973) |
さらに表現のヴァリエーションがある。たとえばパロール享楽はヒステリー的享楽[la jouissance de l'hystérique]とすることもできる。身体の享楽は自閉的享楽[la jouissance autiste]とすることができる。
身体の享楽は自閉的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉的である。The jouissance of the body is autistic: thanks to love and to the fantasy we can have relationships with partners – but in the end jouissance is autistic.(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013) |
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享楽は自閉症的である、それは両性にとってである。主体の根源的パートナーは孤独である。La jouissance est autistique, tant du coté féminin que masculin. Le partenaire fondamental du sujet reste donc la solitude. (Bernard Porcheret, LE RESSORT DE L'AMOUR ,2016) |
上にもあるように自閉的享楽は男性にもないわけではないが、基本的には女性の側に現れる場合が多い。ようするにこうである。
いやあ、女性とは実に複雑である。上階の心ではヒステリー的なパロール享楽で愛を熱心に語っていても、地階には愛にはまったく関知しない自閉的身体の穴の享楽、つまりリビドーの身体があるのだから。
フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質でもって他者を愛しているということである。〔・・・〕つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。 Il s'agissait de ce dont nous parle FREUD, à ce niveau de l'Introduction au narcissisme, à savoir : que nous aimons l'autre de la même substance humide qui est celle dont nous sommes le réservoir, qui s'appelle la libido […] c'est-à-dire environnant, noyant, mouillant l'objet d'en face. La référence de l'amour à l'humide n'est pas de moi, elle est dans Le Banquet que nous avons commenté l'an dernier. |
愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……愛の彼岸にある残滓としての何ものか、ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体に転移させるときにでもやはりそうなのである。Moralité de cette métaphysique de l'amour… l'élément fondamental de la Liebesbedingung, de la condition de l'amour … ce qui s'appelle aimer,[…] ce qu'il y a comme reste au-delà de l'amour, donc ce qui s'appelle aimer d'une certaine façon …je n'aime que mon corps, même quand cet amour, je le transfère sur le corps de l'autre. (ラカン, S9, 21 Février 1962) |
おおむね単純なフェティッシュ的享楽の男の側から、前回示したような安吾の、あるいは次の吉行のような感想が生まれるのは、ある意味やむえないことが女性の方にわかっていただけたでしょうか。
男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』) |
まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっている生理のぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」) |
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なお、「穴の享楽/被愛妄想的享楽」等の対比は、フロイトの表現ならたとえば「リビドー興奮/心的外被」である。
ここで、咳や嗄れ声[Husten und Heiserkeit]の発作に対して見出したさまざまな決定因を総括してみたい。地階[Zuunterst in der Schichtung ]には器官的な誘引としてのリアルな咳の条件[realer, organisch bedingter Hustenreiz]があることが推定され、それは、真珠貝が真珠を造りだすその周囲の砂粒[Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet ]のようなものである。 この刺激は固着しうる [Reiz ist fixierbar]が、それはその刺激がある身体領域[Körperregion]と関係するからであり、ドラの場合、その身体領域が性感帯[erogenen Zone ]としての意味をもっているからなのである。したがってこの領域は興奮したリビドー [erregten Libido]を表現するのに適しており、咳や嗄れ声はおそらく、最初の心的外被[psychische Umkleidung]である。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片 Bruchstück einer Hysterie-Analyse(症例ドラ)』1905年) |
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リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975) |