世界の構造を形式的に見ようとする観点がある。たとえば柄谷は《資本制=ネーション=ステート》だ。 |
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近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年) |
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これはジジェクの《民主主義的イデオロギーの想像界、政治的ヘゲモニーの象徴界、エコノミーの現実界》 の観点とほぼ同様だ。 |
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イラクへの攻撃の三つの「真の」理由(①西洋のデモクラシーへのイデオロギー的信念、②新しい世界秩序における米国のヘゲモニーの主張、③石油という経済的利益)は、パララックスとして扱わねばならない。どれか一つが他の二つの真理ではない。「真理」はむしろ三つのあいだの視野のシフト自体である。それらはISR(想像界・象徴界・現実界)のボロメオの環のように互いに関係している。民主主義的イデオロギーの想像界、政治的ヘゲモニーの象徴界、エコノミーの現実界である。. (Zizek, Iraq: The Borrowed Kettle, 2004) |
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ポール・バーハウ のように四つの観点で見る方法もある、《政治的言説、宗教的言説(イデオロギー的言説)、文化的言説、経済的言説》と。 |
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それほど昔の話ではない。社会が少なくとも4つの様相のあいだの相互作用によって決定づけられていたのは。政治的言説、宗教的言説(イデオロギー的言説)、文化的言説、経済的言説である(ここでの言説 discours とは「社会的結びつきlien social」の意味)。〔・・・〕現在、一つを除きすべては消滅した。政治家は喜劇役者のかき集めである。宗教は性的虐待や自殺テロなどのイメージを喚起するばかり。文化については、人はみなアーティストである。〔・・・〕 唯一支配的言説として居残っているのは経済である。われわれは新自由主義社会に生きている。ここではすべてが生産物となる。さらにこの社会は能力主義につながっている。人はみな自身の成功失敗に責任がある。独力で成功をおさめた者という神話の社会。あなたが成功すれば、自分自身に感謝を捧げる。あなたが失敗すれば、自分自身を責める。最も重要な規範は利益である。あなたが何をするにしろ金をもたらさねばならない。これがこの社会のメッセージである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe「新しい文化の中の居心地の悪さ on Civilisation's New Discontent」2009年) |
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ここでは、《政治的言説、宗教的言説(イデオロギー的言説)、文化的言説、経済的言説》における「宗教的言説と文化的言説」を併せて「文化」としてボロメオの環を示しておこう。 要するに「文化」のなかに、ネーション(共同体)、民主主義、宗教を含めている。もちろん他にも、たとえば愛は文化である。
ところで、オピニオンリーダーとして振る舞いたいらしい日本のインテリ諸君は、あまりにも「経済」に弱いように見えるね。まだ成長期だったら、文化と政治だけの話でもなんとかなった。でも現在、経済を外した議論なんてのは寝言に過ぎないよ。
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で、構造的「負け組」の若い人たちは、その反動として愛や宗教などの文化のみを熱心に語る傾向にあるのだろうよ。民主主義的に「ミソジニー/ミサンドリー」ごっこ、「嫌中嫌韓」ごっことかさ。
民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異邦人や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…] Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版) |
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不毛だよ、こんなことやってても。
もっともあれら大供くんたちの心的機制はわからないではないけどさ
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トラウマを受動的に体験した自我Das Ich, welches das Trauma passiv erlebtは、その状況の成行きを自主的に左右するという希望をもって、能動的にこの反応の再生を、よわめられた形ではあるが繰り返す。 子供はすべての苦痛な印象にたいして、それを遊びで再生しながら、同様にふるまうことをわれわれは知っている。このさい子供は、受動性から能動性へ移行するvon der Passivität zur Aktivität überzugehenことによって、彼の生の出来事を心的に克服しようとするのである。(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年) |
要するに新種のお医者さんごっこだろ? |
小児の遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い[passives Erlebnis durch eine aktive Handlung zu ergänzen] 、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。 医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように、自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置を反復する[die gewalttätige Prozedur an einem kleinen Geschwisterchen wiederholen]。受動性への反抗と能動的役割の選択 [Eine Auflehnung gegen die Passivität und eine Bevorzugung der aktiven Rolle]は疑いない。(フロイト『女性の性愛』第3章、1931年) |
別の言い方をすればこういうことだろうよ。 |
差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」) |
やあすまんね、精神分析という「文化的な」話をしちまって。
ところでフロイトは「経済論的 ökonomischen」(あるいは「経済論的条件ökonomischen Bedingungen」) いう用語を多用してるんだがどういう意味か知ってるかい?
あるいはラカンだったらこうだ。
症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme, …comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX (Lacan, S18,16 Juin 1971) |
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たとえば次の話は実に経済論的だよ |
《負い目(シュルツ)》というあの道徳上の主要概念は、《負債(シュルデン)》というきわめて物質的な概念に由来している」と、ニーチェはいっている。彼が、情念の諸形態を断片的あるいは体系的に考察したどんなモラリストとも異なるのは、そこにいわば債権と債務の関係を見出した点においてである。俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むこととちがいはない。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考えである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』) |
ーーフョードル・パーヴロヴィッチ曰く「それはこうですよ、あの男は実際わしになんにもしやしませんが、その代わりわしのほうであの男に一つきたない、あつかましい仕打ちをしたんです。すると急にわしはあの男が憎らしくなりましてね。」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)
あつかましい仕打ちしたからな、親や祖父たちが。土足で家に上がり込んでさ。 |
今は誰でも簡単に中国に行ける。〔・・・〕しかし、私にはまだ心理的に中国の敷居が高い。韓国にもまだ足を踏み入れていない。親が迷惑をかけた家に子が訪れにくいようなものだろう。(中井久夫「漢字について」『家族の深淵』所収、1995年) |