このブログを検索

2021年4月10日土曜日

おっかさんと蛍

母は神である」のは当然のことであってーー良い意味でも悪い意味でもーー、最近のオッカサンは長生きしてるから不感症の連中が多いだけだ。


おっかさんと蛍

終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。日支事変の頃、従軍記者として私の心はかなり動揺していたが、戦争が進むにつれて、私の心は頑固に戦争から眼を転じて了った。私は「西行」や「実朝」を書いていた。戦後、初めて発表した「モオツァルト」も、戦争中、南京で書き出したものである。それを本にした時、「母上の霊に捧ぐ」と書いたのも、極く自然な真面目な気持からであった。私は、自分の悲しみだけを大事にしていたから、戦後のジャーナリズムの中心問題には、何の関心も持たなかった。


母が死んだ数日後の或る日、妙な体験をした。仏に上げる蝋燭を切らしたのに気付き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もないような大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。


ところで、無論、読者は、私の感傷を一笑に付する事が出来るのだが、そんな事なら、私自身にも出来る事なのである。だが、困った事がある。実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである。私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異って実によく光るとか、そんな事を少しも考えはしなかった。私は、後になって、幾度か反省してみたが、その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何も彼も当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる。


以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基いていて、曲筆はないのである。妙な気持になったのは後の事だ。妙な気持は、事実の徒らな反省によって生じたのであって、事実の直接か経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない。という事は、一応の応答を、私は用意しているという事になるかも知れない。寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。(小林秀雄「感想」)




そう、「寝ぼけないでよく観察してみ給え」、ごく当たり前のことを。


……………………


◼️モノ=現実界=母=異者

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

モノは母である。das Ding, qui est la mère (Lacan,  S7, 16 Décembre 1959)

このモノは分離されており、異者の特性がある。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  …モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)


◼️モノ=享楽の対象=喪われた対象

享楽の対象としてのモノは喪われた対象である。Objet de jouissance …La Chose…cet objet perdu(Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964)


母を見失うというトラウマ的状況 Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter 〔・・・〕この見失われた対象(喪われた対象)への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ。Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle (フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


◼️享楽=穴=去勢

享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない。[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

享楽は去勢である la jouissance est la castration。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


ーー《大文字の母の根は、原リアルの名であり、原穴の名である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, […]c’est le nom du premier trou》(コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? , 2014)


◼️モノ=去勢=享楽=異者

モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance  (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)

現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

 

➡︎去勢された自己身体ーー自体性愛文献


◼️モノ=斜線を引かれた大他者=穴=トラウマ

モノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者と等価である。La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré [Ⱥ] (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

穴の最も深淵な価値は、斜線を引かれた大他者である。le trou,[…] c'est la valeur la plus profonde, si je puis dire, de grand A barré. (J.-A. MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)


ーー《全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である。la structure de l'omnipotence, […]est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant》(ラカン、S4、06 Février 1957)


現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)

享楽自体、穴を為すものである jouissance même qui fait trou(J.-A. MILLER, Passion du nouveau、2003)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)




◼️モノ=異物=トラウマ=反復強迫

(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 [Fremdkörper] のように作用する。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式の下にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン, S11, 12 Février 1964)

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )


現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)

フロイトにとって症状は反復強迫[compulsion de répétition]に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している、症状は固着を意味し、固着する要素は無意識のエスの反復強迫に見出されると。[le symptôme implique une fixation et que le facteur de cette fixation est à trouver dans la compulsion de répétition du ça inconscient. ]フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は、行使されることを止めないもの[ne cesse pas de s'exercer]である.。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)


ーー《母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her,》フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)



※より詳しくは、①モノ文献、②異者文献