ミュッセの《女が欲することは神も欲する[Ce que femme veut, Dieu le veut]》(Le Fils du Titien, 1838)は、《母が欲することは神も欲する[Ce que la maman veut, Dieu Ie veut]》と読み換えるべきだ。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villainsーーA Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009) |
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ラカンの女というもの[La femme]も究極的には、母に読み換えるべきである。 |
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問題となっている女というものは神の別の名である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu,(Lacan, S23, 18 Novembre 1975) |
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一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女というものだということである。C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン, S23, 16 Mars 1976) |
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イマジネールな母ではなく大文字の母、あるいはリアルな母、それが神だ。 |
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大文字の母の基盤は、原リアルの名であり、原穴の名である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, […]c’est le nom du premier trou(コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? , 2014) |
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実際、ラカンの発言を遡っていけばそうなる。 まず母なる女だ。 |
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(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。…une dominance de la femme en tant que mère, et : - mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme. La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (ラカン, S17, 11 Février 1970) |
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そして神とは超自我だと言っている。 |
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一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である。on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970) |
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50歳代のラカンは母なる超自我を連発している。 |
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母なる超自我[ surmoi maternel]・太古の超自我[surmoi archaïque]、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我 [surmoi primordial]の効果に結びついているものである。…最初の他者の水準において、ーーそれが最初の要求[demandes]の単純な支えである限りであるがーー私は言おう、幼児の欲求[besoin]の最初の漠然とした分節化、その水準における最初の欲求不満[frustrations]において、…母なる超自我に属する全ては、この母への依存[dépendance]の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958) |
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「エディプスなき神経症概念」……私はそれを母なる超自我と呼ぶ。 …問いがある。父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 Cette notion de la névrose sans Œdipe,[…] ce qu'on a appellé le surmoi maternel : […]- on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le sur-moi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ? (Lacan, S5, 15 Janvier 1958) |
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いや最初期の30代から既にこう言っている。
パックリ母ともある。 |
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原初の状況における母なる去勢とは、幼児にとって貪り喰われること、パックリやられることの可能性を意味する。La castration maternelle, …dans la description de la situation primitive en tant qu'elle implique pour l'enfant la possibilité de la dévoration et de la morsure. この母なる去勢 が先立っており、父なる去勢 はその代替に過ぎない。父なる去勢はおそらくたいして怖くない。…あの母に呑み込まれ、貪り喰われことに比べれば。Par rapport à cette antériorité de la castration maternelle, la castration paternelle en est un substitut qui n'est pas moins terrible peut-être, …au lieu que dans l'autre cas pour ce qui est de l'engloutissement et de la dévoration par la mère, c'est sans issue de développement. (ラカン, S4, 05 Juin 1957) |
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メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957) |
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このパックリ母の起源は、次のフロイトだ。 |
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母への依存性[Mutterabhängigkeit]のなかに、 のちにパラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くべきことのようにみえるが、母に殺されてしまうという(貪り喰われてしまう?)という規則的に遭遇する不安[ regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?)]があるからである。このような不安は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母に対して生じる憎悪[Feindseligkeit]に対応する。(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年) |
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母なるパックリ穴の不安ーーフロイトにとってこの不安は不快と等価である、《不快(不安)[Unlust-(Angst)]》(1926)ーー、これがラカンの享楽の主要な起源のひとつだ、ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)、《享楽は穴として示される他ない la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou》(AE434, 1970)
要するに「最初に母ありき」なのは当たり前である。この母が原神だ。 フロイトは神についてこう言っている。 |
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歴史的発達の場で、おそらく偉大な母なる神が、男性の神々の出現以前に現れる。〔・・・〕もっともほとんど疑いなく、この暗黒の時代に、母なる神は、男性諸神にとって変わられた。Stelle dieser Entwicklung treten große Muttergottheiten auf, wahrscheinlich noch vor den männlichen Göttern, […] Es ist wenig zweifelhaft, daß sich in jenen dunkeln Zeiten die Ablösung der Muttergottheiten durch männliche Götter (フロイト『モーセと一神教』3.1.4, 1939年) |
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つまりは次のような構造になっている。 |
晩年のラカンが連発しているひとりの女[une femme]も結局、母のことだ ➡︎ 「「ひとりの女」の意味」
基本的に幼児期に「母の過剰現前」があればパックリ母不安ーー融合不安ーーが生まれる(他方「母の不在」は分離不安を引き起こす)。これは後年の人生でもその影響強度は低まるとはいえ同様の機制が生じうる。
ところでいまどき珍しくエディプス的神の信仰に熱心なそこの「キミたち」! 家にとってもおっかないオッカサンいないかい?
もしそうだったらとってもよくわかるよ、パックリやられないよう父なる神で防衛したくなるのが。最近の生身のオットサンはまったく防衛機能ないからな。