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2021年4月9日金曜日

王とシャーマンと医師

 前回引用した文に《「王と雨司と医師とが同じ時代があった」と人類学者フレーザーの言にあった。》(中井久夫「家族の深淵」1991年)とあった。


呪術を司る者たちが,その法外な主張を信じて疑わない社会において重要で支配的な地位に立つのは必然であり,呪術師たちのうちのある者が,民衆から受ける信頼と民衆を圧する威厳の力によって,盲信的な大衆に対して至上権を振うようになるとしても不思議ではない。しばしば呪術師が酋長や王にまで成長発展したことは明らかな事実である。


・・・〔しかし〕公的呪術師の占める地位は全く不安定な(very precarius)ものである。彼が雨を降らせたり、太陽を照らせたり、土地の実りをもたらす力をもっていると信じこんでいる人々は、当然のことながら旱魃や飢饉を彼の無責任な怠慢あるいは故意の計略であるか のように考え、その結果として彼を罰することになるからである。こうしてアフリカでは,雨を降らすことに失敗した酋長はしばしば追放されたり殺されたりした。・・・世界の他の多くの地方でも,王は民衆の福祉のために自然の運行を調節することを期待され,もしその企てに失敗する時は罰せられた。(フレーザー『金枝篇』)


スワビアのいくつかの地域においては、懺悔の火曜日に鉄ひげ博士が病気の人から血を取るふりをするが、その人はそこで死者のように地に倒れる。しかし最後にはその医者が、彼に管で空気を吹き入れることによって彼を回復させる。医者によって生き返らせられるのである。(フレーザー『金枝篇』)



思い出すようにして少し探ってみたら中井久夫はシャーマンを連発している。


精神科治療者の先祖は、手軽な治療師ではない。シャーマンなど、重い病気にいのちがけで立ち向かった古代の治療者である。 しかし私たちは、一部の民間治療者のように、自分だけの特別の治療的才能を誇る者ではない。 私たちを内面的にも外面的にも守ってくれるのは、無名性である。 本当の名医は名医と思っていないで、日々の糧のために働いていると思っているはずで ある。 しかし、ベテランでもライバル意識や権力欲が頭をもたげると、とんでもない道に迷い込む ことがある。これらは隠れていた劣等感のあらわれである。特別の治療の才を誇る者がも っともやっかみの強い人であるのは、民間治療者だけではない。 (中井久夫『看護のための精神医学』 2004年)


ここで、“非定型精神病”を周到に培養発症させることによってS親和者が分裂病になることを回避させるという意味をシャーマニズムが持ちうることに注目したい。それはあるいは失調を起しはじめた時期における人類社会の自己治療の試みであったかも知れない。「生得のシャーマン」となる生涯は、人々の群から離れていることや森のほとりに独りいることを好む子供に、シャーマン集団がそっと目をつけることから始まる。その子が思春期に達したとき、集団は彼を勧誘し“シャーマン学校”に入れる。そのカリキュラムは幻覚能力、同時に二ヶ所に存在する能力、空中飛翔能力、俗界冥界間の往復能力、トランス(脱我)に入る能力等々をさずけ、同時にトリックの使用法を教える。シャーマンになる道にはもう一つあって、シャーマンに治療を受けて治った者であるが、シャーマンは些細な、あるいは局所的な疾患は治療の対象としないから、この者は大疾患とくに精神病から治癒したものといってよい。(中井久夫『分裂病と人類』1982年)


一般に治療文化において、患者とその家族は、治ってきたということ以外というか以上というか、治療費と家族の分担した治療努力とに対する反対給付をもとめるものである。それは、理由の解明あるいは治療の証拠である。歯科医は抜歯した歯を患者にみせる。外科医も切断した虫垂をみせる。精神医学的治療文化においては、最初期から「見せる物」に腐心してきた。シャーマン文化においては、ボアスの報告するカセリドというシャーマンは血まみれのミミズを口からだして、これを病いの原因として提示することによって乗り切っている。むろん、ミミズを口中にふくんだ上で口腔粘膜のどこかを自分で噛み切ったわけだ。精神医学という、治療にかんしてもっともあいまいな医術において「洞察」という治癒の証拠を発見したことは、力動精神医学の重要なポイントであった。すくなくとも「理由」を重視するヨーロッパ文化の下位文化としての精神医学的治療文化には要石である。それだけでなく患者と治療者との相互作用性を回復した。これなくしては、いかに「人道的」な精神病院も患者の排除というそしりを完全には免れることはできないだろう。治療文化はシャーマニズムのごとく重要な成員として患者をふくむのであって、そうでなければ、治療文化として大いに欠けるところがある。(中井久夫『治療文化論』1990年)


ブラセボ効果もシャーマニズムの一種だろう。


ちょっと芝居っ気がありすぎるかもしれないけれど、処方が新しくなるときの私は「効きますように」といって渡します。そのとき片手で軽く祈ることもあります。ご承知のように、向精神薬のプラセボ効果は30パーセントであり、薬効はそれに10パーセントかそこらを上乗せするわけですから、この「効きますように」は無意味ではないと思います。(「中井久夫患者に告げること、患者に聞くこと」2007年『日時計の影』所収)



次のなんか完全にシャーマン中井久夫だ。


山中康裕)「先生は『僕は患者さんにはあまり訊かないし、しゃべらないし、黙っていることが多いんだよね』とおっしゃるのですが、それはまったく嘘です。」


「診察中に、隣の診察室の中井先生の声がうるさくて僕の患者さんの声が聞こえないので、先生もうちょっとしゃべらずに静かにしてくださったらいいのになあ、と思ったことが何度かあるのです。」


「そういう時に、診察が終わってから『先生、もう少し声のボリュームを下げて頂けないでしょうか』と申し上げたら、『山中くん、僕はしゃべっていないよ』と必ずおっしゃったのです。」


「あの時、僕が思ったのは、先生ご自身としてはしゃべっていないおつもりなのです。だけど独り言が出るのです。これは僕なりの考えなのですが、その独り言が患者さんにとってはすごくいいのです。ですからしゃべってはいけないという意味ではないのです。」(座談会「中井久夫に学ぶ」『中井久夫の臨床作法』2015所収)


うまくいっている面接においては「自分」が透明になり、ほとんど自分がなくなっているような感覚があり、ただ恐怖を伴わないのが不思議に思われるが、フロイトの「自由に漂う注意」とはこういうものであろうか。自分の行為の意味をいちいち意識する面接はたいていうまくいっていない。(中井久夫「統合失調症の精神療法」1989年)


エビデンス主義猖獗の21世紀にはこういった話は受けないのかもしれないが、どんな方法でも患者に寄り添ってそののやまいを治療しようと努める精神なら「見せる物」としてのシャーマニズムーーもちろんそれだけではないのは上や前回の引用が示しているーーは決して侮れない筈だ。


現在の米国の有様を見れば、精神病の精神療法は、医師の手を離れて看護師、臨床心理士の手に移り、医師はもっぱら薬物療法を行っている。わが国もその跡を追うかもしれない。すでに精神療法を学ぼうという人たちの多くは、医師よりも臨床心理士ではないだろうか。(中井久夫「統合失調症の精神療法」1989年)


医学・精神医学をマニュアル化し、プログラム化された医学を推進することによって科学の外見をよそおわせるのは患者の犠牲において医学を簡略化し、疑似科学化したにすぎない。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法とは何か」2002年)


精神科治療者はさておき、芸術家にもほとんどいなくなった。むかしはシャーマンっぽい人がたくさんいたんだが、とくに1950年前後ぐらいまでは。たとえば指揮者や演奏家なんかはことさらシャーマン的演出してブラセボ効果だしてたんじゃないかね。いまは芸能人的演出ばかりになっちまったよ。もちろんこれは父なき時代の影響、ラカン派的に言えば大他者の言説から大兄弟の言説への移行の影響が大なのだろうが、それと同時にインターネット文化がシャーマニズムを完膚なきまでに殺したのだろう。