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2021年4月8日木曜日

家族の深淵(中井久夫)


「家族の深淵」 中井久夫、1991年

医師によって個人差はあるだろうが、私は最初の手術の見学の時に失神しかけた。まず血の臭いにまいった。しかし、自分がやる立場になった時、私は最後まで冷静だったし、成功が確実になった時には冗談さえ口をついて出た。血の臭いは最初から気にならなかった。医師を支えているのは慣れではなくーー少しはそれもあるかるしれないがーー「代替の効かない当事者である」という意識である。独りで緊急の手術をしなければならなかった時、途中で、今もしメスを放り出しで号泣できたらどんなに楽だろうという考えが頭をかすめたのを思い出す。


この当事者意識が、往診に際して、家族の感情に同調しようとしてその一歩手前で立ち止まるというか、両者の交錯する危うさに立つというか、そういう位置を医師に対して指定する。 こういう危うさが医師というものを崇高にも下劣にもみせ、等身大の医師をみえなくさせている一要因である。江戸時代の階級性においては僧侶とともに医師は士農工商の外に置かれた。いかなる階級の人をも診るという必要がそうさせただけか、あるいはもっと深い根拠があるのであろうか。「王と雨司と医師とが同じ時代があった」と人類学者フレーザーの言にあった。現代でも、ある程度、この境界人性は生きている。呼ばれた家の玄関で、家族が出迎えるのを待たずに、返事があっただけで、時にはなくとも、さらりと敷居をまたいで上がりこめるのは、僧侶と医師である。往診の時にはまったく自然にさっと靴を脱いで廊下を歩いている自分に驚くことがある。〔・・・〕



精神科医の往診は、ただ、あわてふためく家族に医師という責任ある存在の現存とその一身に具現した医学とが到来したことを示して、責任の軽減と平静とをもたらすだけではたりない。医師が到来しただけで平静がもたらされるような程度では、精神科医は、そもそも呼ばれないのである。


おそらく、精神科医は、混乱の中に身を投じて、おのれという一要素が、場に加わることによって、そこに何らかの変化が発生し、その中のごく一部にでも、悪循環あるいは閉塞からの脱出の契機、種子、萌芽が生じることを目指す者である。その行為は計算しようとしてもしつくせるものはない。精神科医は一種の触媒として、のぞむらくは有益性のほうが有害さよりも少ないような反応を媒介しようとするが、全貌を見渡し、最終結果を予見することはできない。しばしば、はからいを越えた好ましい結果がもたらされることもあるが、それは予想外のたまものである。医師は全体の布置の一部である。そういう者として、しかし、局面を一時的にせよコントロールできなければならない。そうでなければ、医師は局面の奴隷となる。医師はこの二面性を生きるものである。大きなコンテクストの一部であって、しかもこのコンテクストに対して最小限のコントロールができなければならない。おそらく、ウィトゲンシュタインが「自分は世界のまったき断念において世界をある意味で支配することができる」とノートに記したような機徴があるのであろう。〔・・・〕


精神科医の往診においては、即座に好ましい結果をもたらさずともよい。精神科医の行為はーーむろん他の誰の行為もであるがーー数年をへて意味をあらわすことが少なくない。かつて入院後二十年以上をへた患者十余人を選んで、絵画療法などとにかく新しい患者に対して行うような治療を行ったことがあった。それは、さしあたり無効であった。ほとんど壁に語りかけるような努力と周囲には映ったに違いない。しかし、その後五年以上たつと何かが違ってきたという。

サリヴァンは、強迫神経症者について、医師が話したことに通常反応しないが、約六ヵ月たつと、患者は自分の意見のようにしておおよそ医師の話した趣旨のことを語るものだと述べている。強迫神経症のひとが半年だとすれば、もっと長くかかる病態があってもふしぎではない。一般に、予想外によくなった患者の担当医は、実は数年、十数年前の医師の蒔いたものを刈り取っているのかもしれない(よくなるのではなくて逆の場合もありうる)。いずれにせよ、直接の改善はなくてよいのだが、精神科医が往診を終えた跡がいっそうの混乱と混沌と相互の憎しみあいであってはなるまい。精神科医は、家族の眼からみれば長い歴史の中の幕間劇を演じているにすぎないのであるが、そうではあっても今はそれを演じきらなければならない。研修中の外科医と同じく「中途でメスを放り出して泣きだしたくなる」ことがあっても、いったん劇を開始したならば決して途中で投げるわけにはゆかない。しかも、主演者としてでなく、一種のトリックスターとして、黒子としてーー。〔・・・〕


往診を決意するには、その点についての成算があることが望ましい。そのいっぽう、時には「出たとこ勝負」の即興劇を演じなければならないし、そうでなくとも、予見できなかったものに直面することは必ず起こるから、「即興能力」は、少なくとも外科医と同じ程度に、往診する精神科医にはぜひ必要な能力である。 この能力を生かして、局面を絶えず読みかえながら、現場をどういう形で立ち去るか、つまりどのようにこの一幕の幕を引くかを考えつづける必要がある。考えつかなければ立ち去らないくらいの覚悟が必要である。〔・・・〕


そして、患者と家族とは協力者としての面を持つ。病院での診療と往診とはこの点でも根本的に異なる。おそらく、家族たちの来院を求めての家族面接とも大いに異なるであろう。往診においては、患者を含めての家族は、とにかく私をその城に受け入れる決定を行ったのだ。家族の観点からすれば、これは譲歩というだけではない。医師との関係をまったく変える決定である。医師の観点からすれば、おのれは相手の土俵の中で、おのれの一身にこもっている医師性だけに頼るよるべない存在となる。これに対応して、家族にとっての医師は、侵入者であると同時に、味方に取り込むべき両義的存在であり、潜在的には味方である。 このように、往診をすることによって、患者および家族との関係はどうしても大きく変化してしまう。医師の眼にみえる家族は、「患者の家族」という役割を運命によって引き受けた「平面的」な存在でなくなり、その一人一人が人間として見えてくる。これがこのましくない方向にゆけば、家族と馴れ合いの関係になって、患者との治療関係が輪郭不鮮明になったり歪んだりする。しかし、家族を知るだけでなく、その家、その庭、門を開け玄関へと続くアブローチ(いちばん緊張する時だ)、あるいはその周辺を現場として踏むだけでもよいと私は思う。患者がなるほど毎日この地平、この山並みを眺め、この小路をとおり、この木立を眺め、この角度から台所に働くお母さんを見ているのだなということを現地で味わっておくことが、医師の中の何ものかをひそかに変える。〔・・・〕


往診して初めて解けた初歩的な謎がいくつもあった。たとえば、ある少女が、十年来、まったく眠れないと訴えつづけていた。また、傍らに魔女がいるとも。私は、外来でその謎が解けないまま、何年も診てから、友人に後を頼んで転勤した。しかし、二度目の転勤先に頻繁にかかってきた電話は、現主治医とともに往診することを私に決心させた。それは患者の希望でもあったが、私の心の中に謎を解きたいという気持ちが動いてのことだったのも否めない。


市営住宅の一つに少女の家はあった。父は去り、母と二人住まいであった。少女は白皙といってよい容貌に、二十歳を過ぎているとは思えないあどけなさを残していた。十歳にならないころ、まず母の診察に伴って私の前に現れ、次いで診療の主役となった当時の面影はほとんどそのままであったが、十年の閉じこもりが、そのうえに重なっていなかったわけではない。旧知の母は私を歓迎した。私たちは道に迷い、夜になっていた。豪雨であった。


十年の全不眠はありにくく、まして体重が減少しないでそうであるということはまずありえない。質問に応じて少女は頭痛と眼痛と脚の痛みとを訴えた。私は、脈をとった。一分間に一二〇であった。速脈である。これは服用中の抗精神病薬によるものかもしれなかった。しかし、彼女はまったく気づいていない。私は舌を診た。ありえないほどの虚証であった。長年の病いは、「雨裂」と地理学でいう、雨に侵食された山の裸のような甚だしい裂け目を舌の実質に作り、舌の厚さは薄く、色も淡かった。それにしても脈は細く数が多い。私は脈を取りつづけた。少女は静かにしていた。私は、椅子にすわっている少女の前の床に座って、もう一方の手を足の裏にそっと当て、そのままじっとしていようとした。


なぜ足の裏かといえば、身体のもっと上部にふれることは危険があり、実際、少女は必ず不快を訴えるだろうからである。足の裏には重要なセンサーが集中していて、だから人間は二足歩行ができ、さらに一本足で立つこともできる。なぜ床にすわったか。私は少女をすこし仰ぐ位置にいたかった。それは私の臨床眼であった。私は彼女に強制しているのではないことを態度で示したかった。


時間がたっていった。母親が話しかけようとするたびに私は指を口唇にあてて制止した。私はこの家の静寂を維持しようとした。私は、ここまできたら、何かがわかり、少女が眠るまでは家を動かない決意をしていた。じっと脈をとっていると、私の脈も次第に高まってきた。身体水準での「チューニング・イン」が起こりつつあった。この能力に私は恵まれているが、それは両刃のやいばであって、しばしば、私はこの状態からの脱出に苦労してきた。ついに彼女の脈と私の脈は同期してしまい、私の脈も一分間一二〇に達した。しかも、ふだん六〇である脈が倍になれば、ふつうならば坂道を登る時のような息切れがあるのに、今の私には、まったく何の苦痛もなかった。逆に時間の流れがゆっくりになった。眼前の時計の歩みの速さがちょうど半分になった。すべてが高速度写真のようにゆっくりし、すべての感覚が開かれ、意識が明晰になった。これはおそらく少女が日々体験しているものに他ならないものであった。何の苦痛もないことが奇妙であった。ふと私は身の危険を感じた。五十歳代の半ばに近づいており、循環器系を侵す病気を持っているーー。


感覚の鋭敏さの中で、私はガシャガシャガシャという轟音を聞いた。その轟音の音源はすぐわかった。母親が食事を作っている音である。力いっぱいフライパンを上下しているのだ。ついで鍋の中をかきまわす音。この音のつらさは、静寂の中で突然起こり、ほとんど最大限に達して、突然消えることであった。その耐えがたさは、静かな瀬戸内の島に橋がかかり、特急列車が通過する時に島の人が耐えられないと感じる、その理由と同じものである。それは、音の大きさの絶対値だけではない。それもあるが、さらに苦痛なのは絶対に近い静寂が突如やぶられる突発性である。静かな場に調整されている耳は、騒音に慣れている耳とは違う。そもそも、聴覚は視覚よりも警戒のために発達し、そのために使用され、微かな差異、数学的に不完全を承知で「微分回路的な」(実際には差分的というほうが当っているだろう)という認知に当っている。声の微細な個人差を何十年たっても再認し、声の主を当てるのが聴覚である。この微分回路は「突変入力」に弱いのである。ゼロからいきなり立ち上がる入力、あるいは突然ゼロになる入力のことである。その苦痛であった。


いま私は少女の状態に一時的に近づいている。私が耐えがたい轟音として聞いている、この台所仕事の音は、長年これを聞いている少女にはさらに耐えがたいであろう。突変入力がはいるたびに、少女の微分回路は混乱するにちがいなかった。「家にいる目に見えない悪魔」とは「突変入力」によるこの惑乱ではないかと私は仮定した。母親の側には突然最大限の力を出すという特性があり、少女には慣れが生じにくいという特性があるのだろう。それは不幸な組み合わせであるが、生活の他の面にも浸透しているにちがいなかった。


私は突然気づいた。眼前の掛け時計の秒針の音が毎分一二〇であることに。ひょっとすると、少女の脈拍は時計に同期しているのかもしれない。私はよじ登って時計をとめた。私は一家にしばらくこの掛け時計なしで過してもらうことに決めて、時計を下駄箱の中に隠した。


仮説は当たっていた。彼女の脈拍はしだいにゆっくりとなった。私の脈も共にゆるやかになった。母親は、別の部屋で主治医が相手になっていてくれるらしかった。

私は、あらためて思った。ある種の患者は、そのまったき受動性において、あらゆる外界からの刺激を粘土が刻印を受け取るように受け取るーー少なくともそういう時期があるということを私は指摘したことがある。私は、少女が時計の音にも脈が同期してしまう、まったき受動性において日常外部あるいは内部に発生する入力を処理している、いやむしろ一方的に受け入れているのではないかという仮説を立てた。解決方法は、入力の制限か、入力に耐えられるように少女に変わってもらうことだ。しかし、それは大変な問題である。差し当たって、少女が眠れれば、少なくとも、好ましいほうに何かが変わる可能性がある。母親にも本人にもある希望が、かすかにせよ、起こるかもしれない。


私の指圧は、この場合のとっさの行為である。このような未知数の多い状況においては、他の選択肢はすべて危険をはらんでいた。頭の指圧など、それだけで少女に破壊的であり、抗精神病薬なら、これまでに少女が大量に服用していないものはなく、いまさら処方するものはなかった。そして、それはそもそも主治医の問題であった。私は足の裏への軽い接触を続けた。この少女の病んできた膨大な時間の塊りの前で、それはほとんど無にひとしいが、ほかに方法は思いつかなかった。ことばも無力であった。「おりこうさん」的な返事しか返ってこないことを私は十二分に経験していた。


医学とは別に私は指圧を少しはできないではない。私の大叔父の一人は、若いころは放蕩者だったというが、私の知る晩年は、村外れの小さな家で、村人に灸を据え、指圧し、愚痴を聴く、一種の「お助けじいさん」であった。その老人の何かを私は受け継いでいるのかもしれなかった。しかし、鍼灸指圧の職業人ではない私は、通常一人か二人でへとへとになるので、ふだん患者の指圧はしないようにしている。後の患者を診る力がぐっと減るのである。


一時間半後、頭痛は去り少女は眠気を訴えた。いい眠けか、いやーな眠けかと私は問うた。いい眠けであった。私は「隣りの自分の部屋に行ってもいいよ」といった。少女はそっと部屋に滑り込んだ。頭痛などは筋緊張のせいであり、少女の筋緊張がゆるむのを先ほどから私は彼女の足の裏に感じていた。


ここで当然、母親が世話をやこうとした。当然といえば当然の行為であるが、私は、母親のいつもながらの、声帯をいっぱいに緊張させた声でこの一幕を台無しにしたくなかった。思いついたのは、釈迦が自分の出身部族を攻撃に来る王の軍隊の踵を二度めぐらせた、その方法である。私は、その部屋のまえで座禅を組んだ。われながら三文芝居と思ったが他に方法はあっただろうか。「悟り」を求めようとさえしなければ、まあ無念無想というのであろう状態に入ることはむつかしくない。外からみれば周囲の事物あるいは風景の一部になってしまうこととなろう。母親はさすがにたじろいだ。二十分も経ったろうか。隣室から寝息が聞えてきた。とにかく私は何かを達成したのだ。


しかし、問題は、よい残留効果を残しつつどのようにしてこの一幕を閉ざすかであった。私は、母親に、今日は少女を食事に起こさず、このまま眠らせて、明日も起こさないことを頼んだ。実際どれほど大量の眠りが溜まっていたことだろう。そして、掛け時計をしまったことを告げ、私の腕時計をとっさに渡してしばらくこれでやってほしいといった。母親は頷いた。そして、隣室に盛大に用意されている食事に誘った。


私は迷った。彼女は福祉の保護を受けている身である。せいいっぱいの献立であった。しかし、私の目的は母親ではなかった。母親とは当人である少女以上にここで親しくなってはならなかった。動きたく、世話をやきたい彼女を抑えて少女を眠らせつづけることに私はエネルギーを使いつつあった。食事は、当然、私の緊張をほぐし、母親とのいささか馴れ合いを含んだ関係を作るだろう。しかし、いただかなければ、母親がこの食事を捨てる時の気持ちは、索漠とした、受容されなかったという感情となるにちがいない。それは少女にどうはね返るだろうか。


結局、私は、合掌して真ん中のごちそうに象徴的に箸をつけた。そうして合掌したまま、後ろずさりに家を出た。主治医がいくばくかのことばを交して私の後を追った。


閉じ方がこうであってよかったのか、今も思い返すが、結論はまだ揺れている。私は、ある漢方薬を医師に勧めた。主治医にどう見えたかを聞くと「何か芝居がかったことをしていたとしかわからない」といい「しかし、あの家で静寂が二時間あったということはなかったでしょう。二時間の状況をあそこにつくり出したということですね」と答えた。


私はまだまだいろいろなことを語ることができるだろう。しかし、もはや語るには、私の内心の抵抗が大きすぎる。私が経験したことをすべて語るならば、それは、さすがに憚って、かつて公刊されたことのない、精神分析のほんとうの生の記録を公開するに等しいことになるだろう。むろん、その際に私の中で起こっていたこと、私のその都度その都度の仮説とその修正とを詳細に述べなければ、事態は、半面しか見えず、フェアでなく、また読む者を誤った方向に連れてゆくであろう。


ここで、精神分析においては詳細な記録とされるものが、往診においては単なるフィールド・ノート程度であることに注意していただきたい。個人は、抵抗のすえに初めて無意識の秘密をいくらか明らかにするが、家族、少なくとも危機にある家族への往診は、一挙に家族の意識を越えた深淵を明らかにする。しばしば、それは「見えすぎる」のである。(中井久夫「家族の深淵」1991年)