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2021年4月8日木曜日

宗教と精神医学(中井久夫)

人はみななんらかの非医療的救済行為ーーフロイト用語ならおそらく「欲動の昇華Die Sublimierung der Triebe に相当するーーをしている筈で、自分のやっている行為を特権化しないことが大切だ。一般論として言えば、《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている。Human being cannot endure very much reality (中井久夫超訳エリオット「四つの四重奏」)ーー人はみなこういった存在であるだろうから。



芸術や宗教の救済行為はとくに特権化が起こりやすい。前々回、音楽を例に出していくらかその特権化の危うさを記したが、宗教について考えるとき、ここでもまた中井久夫の次の文には多くの示唆がある。

「宗教と精神医学」中井久夫、1995年

《問》ある宗教家から「現在の医学で精神病はどこまで治しうるか」という質問を受けた。一般に精神病には、遺伝であるとか、家相、方角、崇りが原因などの誤解・迷信があり、まちがった宗教観が入り込むことがある。この宗教家も、このまちがいに気づいており、精神病も医学に任せるべきであるか、はたしてどれくらい治るのかという疑問を持っているが、如何に考えるべきか。(京都 T生)



西欧の場合、精神医療には二つの起源がある。一つは行政的・管理的な立場から精神病患者を浮浪者、売春婦などとともに「働かざる者」を一括収容した「施設」(アンシュタルト)に、精神病に関心をもつ内科医が往診(ヴィジート)したことから始まる。精神病患者のみを分別収容し、医師が常駐するようになったのはフランス革命以後であり、精神医学が内科学から分かれて大学に講座を持つようになったのは十九世紀末である。こちらは体制側の医学で非宗教的である。


もう一つは、悪魔祓い師起源で、これが脱宗教化して「催眠術師」となったのはやはりフランス革命前後で、この後身が精神分析学で在野の開業医の学である。宗教や超心理学と微妙な関係にある。


前者が重症・長期・貧困の患者を、後者が軽症の富裕・社会人患者を対象とするという分業の傾向がある。


日本においては、江戸幕府の掲げた「医は仁術なり」という規定は、神官僧侶による医療禁止と表裏一体であり、仏教の教養をもとにした非宗教者である医師が医術を独占するようになった。医学の脱宗教化は欧米よりずっと早くかつ徹底的であった(ただ顕著な例外として日蓮宗僧侶による狐憑き治療が認められていた)。


明治政府がこれを引き継いで、日本の医療はきわだって非宗教的、時に反宗教的である。西欧では奇跡的治癒を認めることも少なくないキリスト教が日本では伝統治療への反対者として立ち現れているという事情もある(沖縄において「ユタ」治療をめぐっての大論争があった)。



日本においては、家相、方角、崇りなどを口にするかしないかは地方差が大きい。一般に浄土真宗地域には迷信が少ない。欧米でも一般に旧教地域に多く新教地域に少ない。スイスに非常に多いのは意外と思われる方があるかも。浄土真宗地域では宗教の医療への介入が少ない代わり、「お坊さまにたずねてから入院する」という患者がいてびっくりした。宗教の地域社会の掌握度が高い。


一般に「不確実な事態に不確実な技術で対応する場合に呪術があり、確実に成功する技術に呪術はない」(文化人類学者マリノフスキー)。医療は明らかに前者である。方角で病院を決めても咎められることではない。医師も大手術の前には祈る。不祥事の続く病室をこっそりお祓いする。良質な抗体を得るコツはウサギに抗原を注射するとき、「よい抗体を作ってくれよな」と頼むことだとアメリカのマニュアルにあるそうである。こういうのは無害である。


次に精神科の特別な事情であるが、救急患者を除いては、新患は過半数が内科医をはじめ他科の先生の紹介か、「拝み屋さん」で効果がないので来る(こちらは関西の特殊事情だろうか)。結局、一般に軽症の悩める患者は精神科以外のかかりつけの先生に薬をもらうか、(時には同時に)宗教治療(あるいは非正統治療)にかかり、その手に負えなくなったときにシキイの高い精神科の門を叩く。


重症患者を長期にわたって背負い込む宗教者はあってもきわめて少ない。非常に有名な例は十九世紀の南ドイツの牧師ブルームハルトによる悪魔つきの少女ゴットリービン・ディットウス治療であろうが(本邦に本格的研究書あり)、生涯を費して一人の治療である。大仕事である。幸か不幸か末期癌患者を相手にする宗教家はおられるが、重症精神病患者に対してはごく少なく、精神科医にゆだねて下さっている。治療終了がなかなかこないからであろうか。


もう一つ。多くの宗教治療は何かの手段であり、治療そのものが目的でないことが医学と異なる。ブルームハルトは「イエスは悪魔に勝つ」ことを証するために少女の中の"悪魔"に立ち向かった。よくみられるのは布教の手段としての病い治しである。入信するまでは熱心だが入信してしまうと面倒をみないことがなくはない。


医療・教育・宗教を「三大脅迫産業」というそうだからひとのことはいえないが、罪や来世や過去の因縁などで脅かすことは非常に困る。また、自分の偉さやパワーを証明するために患者を手段とすることは、医者も厳に自戒しなければならないが、宗教者も同じであると思う。カトリックの大罪である「傲慢」(ヒュブリス)に陥らないことが大切である。



「精神病はどこまで治しうるか」という問い自体が宗教家的である。「癌はどこまで……」「カゼはどこまで……」という問いに医師は答えられるか。一般論を大上段にふりかざして相手に困惑を起こさせ「一本取る」のは宗教家の一部の常套手段である。


釈尊のいわれたように「老病死は不可避」である。この意味では医学は最終的には「敗北の仕方の援助」、少し敷衍すれば「できるだけうまくゆっくりと敗けるための援助」である。老病死を決定的に克服するというのは医学の現実的目標ではない。

ただ、狭義の精神病は自殺以外には死から遠い。そして、予後に非常に幅があり、経過もしばしば波濁万丈であるから、きっと自然回復力も大きいが、それを妨げる力もいろいろあって回復が実現しないことも多いのであろう。また、精神科における「回復」とは、発病以前の状態がしばしば不安定な発病要因を含んでいるので、「病気の前よりもよい」(見栄えしなくとも安定した)状態である必要がある。


宗教家に私が期待する第一は、社会に寛容と助け合いの精神を広めてくださり、差別的なものの見方を訂正して(誰でも病いになりうることは精神病でも変わらない)、社会の「精神医療温度」を二度でも三度でも上げてくださることである。


次に「アジール」というか、病人の「駆け込み場所」「しばしの隠れ家」を提供してくださることである。この点については、私の知人の何人かの宗教家に対する評価を惜しまない。


精神医学が「魂の救済」に全然無関係とはいえないだろうが、それを目指すものでなく、人間が病いに陥りながらそれを求めるときに、その素地をつくるというか、邪魔をわずかでも除こうとするという、限定された領域における限定された技術である。この限定がなければ精神医学も健康な技術ではありえないだろう。(中井久夫「宗教と精神医学」初出1995年「日本医事新報」第三七〇二号『精神科医がものを書くとき』所収)



……………


精神医学も特権化が起こりやすいのかもしれない。中井久夫は、《特に精神科医は、その意味でも王や売春婦とともに"人類最古の職業"といいうるであろう》(「西洋精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)としているが、ここでの王は、《雨司、呪術師はしばしば王を兼ねていた》(「『分裂病と人類』について」2000年初出『時のしずく』所収、つまりは宗教家の相が大いにある。上に精神分析家は「悪魔祓い師起源」とあるのは、この文脈のなかにある。宗教と同様、精神医学も充分な注意をする必要がある。


この流れのなかで「精神科医の非特権化」の記述がある。



私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。


そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。


患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。


精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。


実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。


職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただのpromiscuousなひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。)


しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。


以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(中井久夫『治療文化論』1990年)



精神科医だけでなく一部の宗教家や信者にも夜郎自大というべきものが明らかにあるだろうから、彼らは自らを「娼婦」と見なすようなーーあくまでも例えばだがーー謙虚さを身に着けるよう最低限訓練すべきじゃないだろうか、ヒュブリスに陥らないためにも。


ナザレのイエスのみを敬愛したニーチェ、発狂直前の1889年1月3日、乱暴な馬車屋が馬を虐待するのに往来で出会い、泣きながら走って馬の首を抱いたニーチェ、アンチクリストとしてのニーチェ、彼の次の文は、宗教家=娼婦という光の下に読みうる。

 


キリスト教が、その最初の地盤を、最下層の階級を、古代世界の冥府を立ちさったとき、権力をもとめて野蛮民族のあいだへと出かけていったとき、そこで前提となったのは、もはや疲れた人間ではなく、内的に粗野となったおのれを引き裂く人間、――強いが、しかし出来そこないの人間であった。


――もとに話をかえして、私はキリスト教のほんとうの歴史を物語る。――すでに「キリスト教」という言葉が一つの誤解であるーー、根本においてはただ一人のキリスト教者がいただけであって、その人は十字架で死んだのである。「福音」は十字架で死んだのである。この瞬間以来「福音」と呼ばれているものは、すでに、その人が行きぬいたものとは反対のものであった。すなわち、「悪しき音信」、禍音であった。「信仰」のうちに、たとえばキリストによる救済の信仰のうちに、キリスト者のしるしを見てとるとすれば、それは馬鹿げきった誤りである。たんにキリスト教的実践のみが、十字架で死んだその人が生きぬいたと同じ生のみが、キリスト教的なのである・・・今日なおそうした生は可能であり、或る種の人たちにとってはそのうえ必然的ですらある。真正のキリスト教、根源的キリスト教は、いかなる時代にも可能であるであろう・・・信仰ではなく、行為、なによりも、多くのことをおこなわないこと、別様の存在である・・・


意識の状態、たとえば、信仰とか真なりと思いこむとかはーーいずれの心理学者も知っていることだがーー本能の価値にくらべれば完全にどうでもよいことであり、五級どころのことである。もっと厳密に言うなら、精神的因果性の全概念が誤りなのである。キリスト者であることを、キリスト者であるゆえんのものを、真なりと思いこむことに、たんなる意識の現象性に還元することは、キリスト者であるゆえんのものを否定することにほかならない。実際のところ一人のキリスト者も全然いなかったのである。「キリスト者」なるものは、二千年以来キリスト者と呼ばれているものは、たんに心理学的な自己誤解にすぎない。(ニーチェ『反キリスト者』1888年)