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2021年4月30日金曜日

過去のよろこびと痛みのすべてが詰まった「身体の壺」


プルーストはこう書いている。


私は作品の最後の巻―ーまだ刊行されていない―ーで、無意識的再想起の上に私の全芸術論をすえる[ces ressouvenirs inconscients sur lesquels j'asseois, dans le dernier volume non encore publié de mon œuvre, toute ma théorie de l'art,  ](Marcel Proust, « À propos du “ style ” de Flaubert » , 1er janvier 1920)


人によるだろうが、ある年齢以降は、なぜこの芸術に、なぜこの美にこんなに感動するのかを問うとき、ほぼこの無意識的再想起がかかわっていると思うように私はなった。


そして身体の壺には、過去のよろこびと痛みのすべてが詰まっており、些細な感覚が一挙にこの「閉ざされた壺」vases closーープルーストはこの表現を何度か使っているーーを開くと。これが前回「喜ばしいトラウマ回帰」で記したことだ。


記憶の混濁 [troubles de la mémoire ]には心の間歇 [les intermittences du cœur] がつながっている。われわれの内的な機能の所産のすべて、すなわち過去のよろこびとか痛みとかのすべて [tous nos biens intérieurs, nos joies passées, toutes nos douleurs]が、いつまでも長くわれわれのなかに所有されているかのように思われるとすれば、それはわれわれの身体の存在 [l'existence de notre corps]のためであろう、身体はわれわれの霊性が封じこまれている壺[un vase où notre spiritualité serait enclose]のように思われているからだ。(プルースト「ソドムとゴモラ」)


以下の中井久夫のいう解離が前回示したフロイトラカンの排除=外立そして固着であることを念頭に置きつつ、もう一度読んでみよう。


「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。〔・・・〕


解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)


私の場合、真のよろこびと痛みは、遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもない。


痛みは明らかに苦しみと対立する。痛みは、異者性・親密性・遠くにあるものの顔である。la douleur, ici nettement opposée à la souffrance. Douleur qui prend les visages, […] de l'étrangeté, de l'intime, des lointains. 〔・・・〕


最も近くにあるものは最も異者である。すなわち近接した要素は無限の距離にある。le plus proche soit le plus étranger ; que l’élément contigu soit à une infinie distance. . (ミシェル・シュネデールMichel Schneider La tombée du jour : Schumann)


そう、あのレミニサンスの花柄の恩寵だ。


これは極めて現実的な(リアルな)書 livre extrêmement réel だが、 「無意志的記憶 mémoire involontaire」を模倣するために、…いわば、恩寵 grâce により、「レミニサンスの花柄 pédoncule de réminiscences」により支えられている。 (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)


ラカンはトラウマとレミニサンスを関連づけている。


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制 forçage」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、「レミニサンスréminiscence」と呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる。Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration (ラカン、S.23, 13 Avril 1976、摘要)


フロイトラカンにおけるトラウマとは最も基本的には「身体の出来事」である。





それは、身体の記憶 [la mémoire du corps]呼んでもよいだろう。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である [mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など [des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières]、…失われた時の記憶 [le souvenir du temps perdu ]を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶[le corps et la mémoire]によって、身体の記憶 [la mémoire du corps]によって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)


ラカンは身体の出来事としての固着を骨象a[osbjet a]とも呼んだが、つまりは身体に突き刺さった骨だ。ここでどうしてプルースト の「過去が刻印された傷」と結びつけていけない筈があろう?


われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷 notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit,(プルースト 「逃げ去る女」)


そしてジュネ=ジャコメッティを。


美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』1958年)