前回引用した文における「宗教」信者は典型的だよ、ボクの・アタシの信仰の対象は「正しい答え」を与えてくれるているという錯覚に閉じ籠り、その結果「数多くの社会的症状を構築」するのは。 |
標準的症状は社会的症状である。その症状において人は社会的規範に従う。どの社会も制度を構築する。この制度とは、宗教から科学までの信念の象徴的システムである。 遅かれ早かれどの主体もこれらの制度の欠陥を見出し、別の答えを探さなければならない。たいていは、そして通例のヒステリー的抗議にもかかわらず、彼らはシステム内に居座っている。つまり、欠如なき大他者によって保証された「正しい答え」があるという信念内部に居座っている。そして新しい大他者を探し求めつつ数多くの個人的症状を構築する。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains, 2009) |
大他者の信者の症状というのは、別名、エディプス的父の症状だ。 |
父は症状である。le père est un symptôme(ラカン, S23, 18 Novembre 1975) |
エディプスコンプレクス自体、症状である。Le complexe d'Œdipe, comme tel, est un symptôme.(ラカン, S23, 18 Novembre 1975) |
この信仰の名の下に、信者集団という社会的結びつきが生まれる。 |
社会的結びつきは症状である。le lien social, c’est le symptôme (J.-A. Miller, Los inclasificables de la clínica psicoanalítica, 1999) |
その集団で生まれるのは、たとえば所属外の人に対する「過酷で無情な、容赦ない敵意の衝動」だ。 |
教会、つまり信者の共同体…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で偏狭になりがちである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年) |
これはもちろん宗教信者だけの問題ではないが、彼らに最も典型的に現れるのはほぼ間違いない、視野の幅の狭い正義の人が。 |
一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 ) |
こういった話はかつてから語られてきたものであり、たとえばクンデラならこうだ。 |
人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。 |
この「あれかこれか」のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 ) |
どんな信仰でも信者はよくないよ、ボクも音楽の信者のようなところがあって気をつけないといけないと最近思うようになったね |
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幸福に必要なものはなんとわずかであることか! 一つの風笛の音色。――音楽がなければ人生は一つの錯誤であろう。Wie wenig gehört zum Glücke! Der Ton eines Dudelsacks. - Ohne Musik wäre das Leben ein Irrtum. Der Deutsche denkt sich selbst Gott liedersingend.(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」33番) |
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音楽がなければ、生には何の意味もありませんよ。音楽は私たちの深部に触れます。音楽は、私の人生で途方もなく大きな役割を果たしました。音楽を解さない人間にはまったく興味がありませんね。ゼロですよ。(シオラン『対談集』) |
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これは音楽内部のおのおのの愛の対象の相違においてさえ起こるので、少し前、技術的にはとてもすぐれた今売り出し中のピアニストが、シューベルトよりラヴェルのほうを上においているツイートを見たが、「あいつはボクにとってゼロだ!?」、シューベルトの妖怪の世界よりもラヴェルみたいなチャラチャラした世界を上に置くなんて、フロイト曰くの「過酷で無情な、容赦ない敵意の衝動」が生まれちまったよ。 |
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音楽は一見いかに論理的・倫理的な厳密なものであるにせよ、妖怪たちの世界に属している、と私にはむしろ思われる。この妖怪の世界そのものが理性と人間の尊厳という面で絶対的に信頼できると、私はきっぱりと誓言したくはない。にもかかわらず私は音楽が好きでたまらない。それは、残念と思われるにせよ、喜ばしいと思われるにせよ、人間の本性から切り離すことができない諸矛盾のひとつである。(トーマス・マン『ファウスト博士』) |
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という具合になるのさ、信者はどいつもこいつもよくないよ、だからーー、音楽の信者は是正しようもないかもしれないがーー、最低限、音楽信者集団のなかにだけは入らないようにしてるのさ。
要するに《集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている Die Masse ist außerordentlich beeinflußbar und leichtgläubig, sie ist kritiklos, 》(フロイト『集団心理学と自我の分析』)という風にならないためにさ。たとえばなんのクラスタでもツイッタークラスタってのは最悪だよ。クラスタ村内部で、互いに湿った瞳を交わし合い頷き合っているからな。 |