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2021年5月2日日曜日

創造と癒し

 前回の続きとして記すが、創造行為は多くの場合、少なくともその手始めは、「癒し」なんだろうよ。

たとえば漱石はこう書いている。


詩人とは自分の屍骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。その方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、厠に上った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟りであるから軽便だと云って侮蔑する必要はない。軽便であればあるほど功徳になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否やうれしくなる。涙を十七字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉しさだけの自分になる。 


これが平生から余の主張である。今夜も一つこの主張を実行して見ようと、夜具の中で例の事件を色々と句に仕立てる。出来たら書きつけないと散漫になっていかぬと、念入りの修業だから、例の写生帖をあけて枕元へ置く。


「海棠の露をふるふや物狂ひ」と真先に書き付けて読んで見ると、別に面白くもないが、さりとて気味のわるい事もない。次に「花の影、女の影の朧かな」とやったが、これは季が重なっている。しかし何でも構わない、気が落ちついて呑気になればいい。それから「正一位、女に化けて朧月」と作ったが、狂句めいて、自分ながらおかしくなった。(夏目漱石『草枕』)


なにからの癒しかと云えば、漱石の場合は女からの癒しじゃないかな。もっとも漱石は遺作『明暗』ではその癒しとは反対のことを書いたのだが。

ここで29歳の加藤周一の文を掲げておこう。人がこの立場を受け入れるか否かは別にして、実に見事な文だと私は思う。


私は、『明暗』によって、又『明暗』によってのみ、漱石は不朽であると思う。そして、『明暗』は、漱石の「知性人たる本質」によってではなく、知性人たらざる本質によって、その他のすべての小説が達し得なかった、今日なお新しい現実、人間の情念の変らぬ現実に達し得たと思う。〔・・・〕


そのデーモンは、『明暗』の作者を、捉えたのであり、生涯に一度ただその時にのみ捉えたのである。それが修繕時の大患にはじまったか、何にはじまったか、私は知らない。確実なのは、小説の世界が今日なお新しい現実を我々に示すということであり、それに較べれば、知的な漱石の数々の試みなどは何ものでもないということである。〔・・・〕


我々の憎悪や愛情やその他もろもろの情念は、しばしば極端に到り、爆発的に意識をかき乱し、ながく注意され、ながく論理的に追求されれば、意識の底からは奇怪なさまざまの物が現れるであろう。我々の日常生活にそういうことが少ないのは、我々の習慣が危険なものを避け、深淵が口を開いても、その底を見極めようとはしないからである。しかし、その底に、我々の行動を決定する現実があり、日常的意識の奥に、我々を支配する愛憎や不安や希望がある。それは、日常的生の表面に多様な形をとって現れるが、その多様な現象の背後に、常に変らざる本質があり、プラトン風に言えば、影なる現象世界の背後に、観念なる実在がなければならない。観念的なものは現実的であり得るし、むしろ観念的なもののみが現実的であり得る。なぜなら、それが、小説家に、深く体験され、動かしがたく確実に直感されたものであるからだ。(加藤周一「漱石に於ける現実 ――殊に『明暗』に就いて――」1948年)



癒しの話に戻ってラカン的に言えば、創造行為に限らず、我々のすべての言説は性的非関係というリアルなトラウマに対する防衛=穴埋めだ。


我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが穴ウマ(穴=トラウマ)を為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(S22, 17 Décembre 1974)


加藤周一を援用して言えば、漱石は『明暗』にて、かつての「知性人たる本質」から「知性人たらざる本質」へとずんずん下がってゆき、魑魅魍魎が棲息する「深淵」へと向かったのであり、これこそ、その意味合いにいささかの相違があるにせよ、ラカン的な穴埋めの世界から穴の世界への潜行、つまりは言語界からトラウマ界への移行である。最晩年の漱石の筆には血が滲んでいる。



対象aは補填 supplément(穴埋め)によってのみ代表象されうる。穴としての対象aは、枠・窓と等価とすることができる[En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre]。〔・・・〕


(肝腎なのは)窓を見て自らを知ることである。欲動の主体としての自己自身を。あなたは享楽している、永遠の失敗のなかを循環運動している。[voir la fenêtre et se connaître comme sujet de la pulsion, soit ce dont vous jouissez en en faisant le tour dans un sempiternel échec.](J.-A.Miller, L’image reine , 2016)




ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)

間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である。au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir (J.-A. Miller, L'Autre sans Autre, May 2013)


……………

以下、中井久夫の『創造と癒し序説』から抜き出す。


「もし私が書かなかったならば私はとめどもなく憂鬱になってしまっていただろう」とドイツの作家トーマス・マンは晩年に語っている。そして、彼は午前中、きっかり正午まで書斎にこもって人を寄せつけなかった。創作の合間にピアノをひいて、その音だけが扉の外に漏れてきたから、娘のエリカ・マンは、お父さんの音楽の時間だとずっと思っていたという。

 

フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、一八九四年、彼が精神病的とさえ憶測される二年間を通過した後、生涯、朝四時に独り起きだしてコーヒーを沸かし、八時まで、現在「カイエ」と称される膨大なノートを執筆した。詩作も、この暁の純粋で孤独な時間になされた。〔・・・〕


私は文体獲得によって初めて創作行為は癒しとなりうると考える。それは癒しの十分条件ではないが必要条件であると私は思う。


 むろん個人の日記、ノートの類も癒しの意味を持たないわけではないが、それは別個の問題であって、文字言語的定着による前ゲシュタルト的言語・イマージュ複合の減圧、貧困化、明確化による癒しである。〔・・・〕


 しかし、文体獲得を以て万事よしとすることはできない。 


芥川賞を初め、文学賞受賞作と受賞後第一作との相違を次のように定式化することができる。受賞作にあるあらゆる萌芽的なもののうち、受賞第一作においては、受賞によって光りを当てられた部分が突出しているとーー。しばしば、受賞作にある豊穣さは第一作においては単純明快化による犠牲をこうむっている。


作家となることは実にしばしば流入する体験が偏り、狭くなることである。わが国の作家が世に知られるとともに文壇と家庭の事件を書くことになってしまう例はいくらでもある。 


一般に、作家が創造的でありつづけることは、創造的となることよりもはるかに困難である。すなわち、創造が癒しであるとして、その治癒像がどうなるかという問題である。


 一般に、四つの軌道のいずれかを取ることが多い。一つは「自己模倣」であり、第二は「絶えざる実験」であり、第三は「沈黙」である。第四は「自己破壊」である。実際には読者および時代の変化と当人の加齢とに応じて、時とともに変化することが少なくない。 


「自己模倣」はもっとも安全である。彼の書くものがいかにも彼の書くものらしいことを求める「ひっそりとした固定読者」の層に包まれて彼は一種の「名優」となる。わが国においては、詩人あるいはエッセイストの場合でさえ「その人のものなら何でも買う」固定読者が千五百人はいる。彼は歌舞伎の俳優のように芸の質を落とさないように精進していればよい。ただ、読者の移り気は別としても、文学における「自己模倣」は演劇あるいは絵画よりも困難である。林武のように薔薇ばかり描いているわけにはゆかない。こうして彼は第二の「実験」に打って出る誘いを内に感じる。 


「実験」は画家ピカソあるいは谷崎潤一郎を思い浮かべられればよいだろう。ただ、マルクスが創造的である条件とした「若く貧しく無名であること」が失われている場合、「実験」はショウに堕する危険がある。この場合、彼が実験することを求める騒がしい読者、批評家、ジャーナリストに囲まれて、彼は「絶えざる実験者」となるが、危険は「スター」に堕することである。それはこのタイプの「囲む連中」が求めることである。私は三島由紀夫の例を思い浮かべずにはいられない。この道を全うするには、ゲーテほどの狡知と強制的外向人化と多額の金銭とが必要である。 


第三は「沈黙」である。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)。もっとも、彼が無名の時にかちえた「若きパルク」完成のために専念した四年間のような時間は、著名になってからは得るべくもなく、第二次大戦が強制した沈黙期間がなければ最後の大作「わがファウスト」に着手できなかったであろう(死が完成を阻んだが)。  


第四は例を挙げるまでもない。己が創ったものは自己の外化であり、自己等価物、より正確にいえば自己の過去のさまざまな問題の解決失敗の等価物、一言にしていえば「自己の傷跡の集大成」である。それらはすべて新しい独特の重荷となりうる。それらはもはや廃棄すべくもないとすれば、代わって自己破壊への拒みがたい傾斜が生まれても不思議ではない。老いたサマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」と言い残して自殺している。 


サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」1996年)





ひとつだけ記述にいくらか問題がある箇所がある。「サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして…」云々の箇所である。確かにフロイトは『性理論三篇』(1905年)の段階では昇華を賛美している。だが後年は次の如し。


◼️昇華の不可能性

人間の今日までの発展は、私には動物の場合とおなじ説明でこと足りるように思われるし、少数の個人においに 完成へのやむことなき衝迫[rastlosen Drang zu weiterer Vervollkommnung ]とみられるものは、当然、人間文化の価値多いものがその上に打ちたてられている欲動抑圧[Triebverdrängung]の結果として理解されるのである。


抑圧された欲動[verdrängte Trieb] は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進むungebändigt immer vorwärts dringt」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)


◼️欲動の昇華=お上品化

われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする機制がある。…この目的のためには、欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]が役立つ。一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。芸術家が制作ーーすなわち自分の空想の所産の具体化[der Verkörperung seiner Phantasiegebilde]ーーによって手に入れる喜び、研究者が問題を解決し真理を認識するときに感ずる喜びなど、との種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識心理の立場から明らかにするととができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級」 »feiner und höher« なものに思えるという比喩的な説明しかできない。けれどもこの種の満足は、粗野な原初の欲動蠢動[primärer Triebregungen]を堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体[Leiblichkeit]までを突き動かすことがない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年)