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2021年5月9日日曜日

憎んでいるから惚れる


真に惚れるというのは、憎んでいるから惚れるのである。


憎しみは対象にたいする関係としては愛よりも古い。Der Haß ist als Relation zum Objekt älter als die Liebe, (フロイト『欲動とその運命』1915年)

愛は非常にしばしば「アンビヴァレンツ」に、つまり同一の対象にたいする憎悪衝動をともなって現れる。Liebe …daß sie so häufig »ambivalent«, d. h. in Begleitung von Haßregungen gegen das nämliche Objekt auftritt. (フロイト『欲動とその運命』1915年)




これはすでにニーチェが言っている。


わたしがかつて愛にたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段として行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪なのだ。Hat man Ohren für meine Definition der Liebe gehabt? es ist die einzige, die eines Philosophen würdig ist. Liebe – in ihren Mitteln der Krieg, in ihrem Grunde der Todhaß der Geschlechter. (ニーチェ『この人を見よ』1888年)



この愛憎コンプレクス[Liebe-Haß-Komplex](Freud, 1909)についての不感症者は、愛について深く考えたことがない者でしかアリマセン。


自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう!Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」1883年)



おそらく水っぽいミルク派でせう。


この語(愛 Liebe )がこれほど頻繁にくりかえされてしかるべきものとは思えなかった。それどころか、この二音綴は、まことにいとわしきものと思えるのだった。水っぽいミルクとでもいうか、青味を帯びた白色の、なにやら甘ったるいしろもののイメージに結びついていた 。(トーマス・マン『魔の山』1924年)



生涯愛に苦しんだニーチェがせっかく書き残してくれた洞察を蔑ろにして、甘ったるい愛を夢想すべきではアリマセン。


ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung、1908年 )



もっともフロイトが挙げている唯一の例外がある。母の息子への愛である。とはいえこれも「場合によっては」ということである。


精神分析のエビデンスが示しているのは、ある期間持続して二人の人間のあいだにむすばれる親密な感情関係ーー結婚、友情、親子関係ーーのほとんどすべては、拒絶し敵対する感情のしこりを含んでいる。それが気づかれないのは、ただ抑圧されているからである。


Nach dem Zeugnis der Psychoanalyse enthält fast jedes intime Gefühlsverhältnis zwischen zwei Personen von längerer Dauer ― Ehebeziehung, Freundschaft, Eltern- und Kindschaft ― einen Bodensatz von ablehnenden, feindseligen Gefühlen, der nur infolge von Verdrängung der Wahrnehmung entgeht.


おそらく唯一の例外は、息子への母の関係[Beziehung der Mutter zum Sohn ]である。これはナルシシズムに基づいており、後年の(主に娘との)ライバル意識によっても損なわれことなく、性的目標選択のアプローチによって強固なものになる。


Vielleicht mit einziger Ausnahme der Beziehung der Mutter zum Sohn, die, auf Narzißmus gegründet, durch spätere Rivalität nicht gestört und durch einen Ansatz zur sexuellen Objektwahl verstärkt wird. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章、1921年)




真の愛とは、《初期の自我への傷(ナルシシズム的屈辱)[frühzeitige Schädigungen des Ichs (narzißtische Kränkungen)]》(フロイト, 1939)、《ナルシシズム的傷痕[narzißtische Narbe]》(フロイト, 1920)、あるいは《われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷 notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, 》(プルースト「逃げ去る女」)に関わる。別の言い方をすれば、人にはみな「リアルな愛の喪失のトラウマ」がある。



よくお考えになって下さい。十九世紀タイタン族のニーチェやフロイト等に対して細身の剣で闘ったに過ぎない二十世紀のチョロチョロした作家に頼ってばかりいてはナリマセン。


フロイトは本質的に十九世紀人であると考える。二十世紀は、文学史におけると同じく第一次大戦後とともに始まると考えるからである。フロイトはマルクスやダーウィンなどと同じく、十九世紀において、具体的かつ全体的であろうとする壮大なプログラムのもとに数多くの矛盾を含む体系的業績を二十世紀に遺贈した ”タイタン族"の一人であると思う。彼らは巧みに無限の思索に誘いこむ強力なパン種を二十世紀のなかに仕込んでおいた連中であった。このパン種の発酵作用とその波及は今日もなお決して終末すら見透かせないのが現実である。二十世紀思想史の重要な一面は、これらの、あらわに矛盾を含みつつ不死身であるタイタン族との、しばしば鋭利ながら細身にすぎる剣をもってする二十世紀知性との格闘であったといえなくもない。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)