何度か示しているつもりだが、ラカンの享楽とは究極的にはフロイトの愛である。「究極的には」とは、フロイトの愛には、ラカン用語でいうなら、象徴界的愛、想像界的愛、現実界的愛の審級があり、現実界的愛が、《現実界の享楽[Jouissance du réel] 》(Lacan, S23, 10 Février 1976)に相当するという意味である。
仏ラカン注釈者の代表的二人、コレット・ソレールとジャック=アラン・ミレールはこう言っている。 |
疑いもなく最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration.. (コレット・ソレール Colette Soler, La passe réinventée ? , 2010) |
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、享楽の控除 (- J) を表すフロイト用語である。le moins-phi (- φ) qui veut dire « castration » , le mot freudien pour cette soustraction de jouissance. (- J) (J.~A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009) |
享楽欠如[manque à jouir]も享楽の控除[soustraction de jouissance]も享楽の喪失[déperdition de jouissance]のこととして捉えうる。 |
反復は享楽回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste : que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD]. 〔・・・〕 フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある。conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970) |
つまり去勢とは享楽喪失の穴である。 |
われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10 Janvier 1968) |
享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない。[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
享楽は去勢である [la jouissance est la castration]。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977) |
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ところで先の文でラカンは、フロイトが「享楽の喪失」やら「廃墟となった享楽」やらと言っているとしているが、もちろんフロイトは「享楽」という語をそのまま使っているわけではない。ではフロイトにおいて享楽は何に相当するのか。 |
フロイトは愛の喪失の不安[Angst vor dem Liebesverlust]と何度か言っている。 |
寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失の不安と名づけるのが最も相応しい。Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden. (フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年) |
この不安はトラウマへの反応であり、「愛の喪失の不安」は「愛の喪失のトラウマ」と言い換えうる。 |
不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
経験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ。Heißen wir eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; (フロイト『制止、症状、不安』第11章B) |
したがってラカンの「享楽の喪失の穴」はフロイトの「愛の喪失のトラウマ」と言いうる。 |
愛の喪失の不安[Angst vor dem Liebesverlust]は明瞭に、母の不在を見出したときの幼児の不安、その不安の後年の生で発展形である。あなた方は悟るだろう、この不安によって示される危険状況がいかにリアルなものかを。母が不在あるいは母が幼児から愛を退かせたとき、幼児の欲求の満足はもはや確かでない。そして最も苦痛な緊張感に曝される。次の考えを拒絶してはならない。つまり不安の決定因はその底に出生時の原不安の状況[die Situation der ursprünglichen Geburtsangst] を反復していることを。それは確かに母からの分離[Trennung von der Mutter]を示している。 |
die Angst vor dem Liebesverlust, ersichtlich eine Fortbildung der Angst des Säuglings, wenn er die Mutter vermißt. Sie verstehen, welche reale Gefahrsituation durch diese Angst angezeigt wird. Wenn die Mutter abwesend ist oder dem Kind ihre Liebe entzogen hat, ist es ja der Befriedigung seiner Bedürfnisse nicht mehr sicher, möglicherweise den peinlichsten Spannungsgefühlen ausgesetzt. Weisen Sie die Idee nicht ab, daß diese Angstbedingungen im Grunde die Situation der ursprünglichen Geburtsangst wiederholen, die ja auch eine Trennung von der Mutter bedeutete. (フロイト『新精神分析入門』第32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
上にあるように究極の愛の喪失は出産外傷の等価物である。 |
これがフロイトにとって去勢の原像、すなわち原去勢である。 |
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註) |
ここでラカンに戻って確認しよう。ラカンはリビドーの控除を語っている。 |
リビドーは…人が有性生殖のサイクルに従うことによって生きている存在から控除される[soustrait]。La libido, …de ce qui est justement soustrait à l'être vivant, d'être soumis au cycle de la reproduction sexuée. (ラカン, S11, 20 Mai 1964) |
控除とは上に見たように喪失であり、究極の喪失は母胎である。 |
例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964) |
このリビドーの喪失が、享楽の喪失=愛の喪失である。 |
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
リビドーは愛と要約できる[Libido ist …was man als Liebe zusammenfassen kann. (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年) |
つまりは「リビドー喪失の穴」、「リビドー喪失のトラウマ」とすることができる。 |
リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou〔・・・〕そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975) |
現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974) |
以上、「享楽の喪失の穴」が「(リアルな)愛の喪失のトラウマ」であることが確認できた筈である。 |