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2021年5月16日日曜日

侵犯ではなく侵入

 前回のバタイユは侵犯じゃないよ。ボクはバタイユをむかし少しだけ読んだだけで、もう忘れたけど、少なくとも目玉の話に限れば、外傷性侵入の話だ。

ラカンは1960年時点では侵犯と言っていたけど、10年後侵入になった。フロイトはもともとリビドー固着の侵入の人であり、そちらへ移行した。


享楽の侵犯 [la jouissance de la transgression](ラカン, S7, 30 Mars 1960)

人は侵犯などしない![on ne transgresse rien ! ]〔・・・〕享楽、それは侵犯ではない。むしろはるかに侵入である[Ce n'est pas ici transgression, mais bien plutôt irruption](ラカン、S17, 26 Novembre 1969)


享楽は侵犯ではない。ラカンの最後の教えの視野から享楽に接近すれば、精神分析の倫理(セミネールⅦ)で示されたものとは異なり、享楽は侵犯ではない。侵入である。La jouissance n'est pas transgression. La jouissance, telle que je l'aborde dans la perspective du dernier enseignement de Lacan, n'est pas – à la différence de ce qui est exposé dans L'Ethique de la psychanalyse –, la jouissance n'est pas une transgression. …cette irruption (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse,  3 juin 2009)



侵入は固着点から始まる。Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her (フロイト『症例シュレーバー 』1911年)



だいたいボクはこの2年ぐらいは、フロイトラカンをめぐっては、この固着点からの侵入の話ばかりをしてるつもりだがな。「侵入」という語はめったに使っていず、固着の残滓=異者としての身体(異物[Fremdkörper]という語を使っているが、あれこそまさに侵入するエスの身体だ。ーー《抑圧されたもの(原抑圧=固着)は、異物[Fremdkörper] のように分離されている。〔・・・〕この抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う。》 (フロイト『モーセと一神教』1939年)


享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


享楽はまさに固着にある。人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »  (Lacan, S16, 05  Mars  1969 )


ーー現実界はトラウマ界のことであり、「トラウマは常に同じ場処に回帰する」とは気づいてみればごく当たり前の話。もちろん享楽=現実界であり、《われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. 》(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)



エディプスの消滅における超寛容社会でも「禁止と侵犯」がまったくないわけではないけど、ガチガチの権威はもはや稀有の存在だ。そういった面からも侵犯➡︎侵入とラカンは1969年に言ったのだけれど、それとは別にフロイトは「トラウマへの固着と反復強迫」の人。1974年以降のラカンは完全にフロイト的侵入の人になっている。


以前の問題系において、我々は言うことができる、欲望は禁止によって生み出される[le désir est créé par l'interdit]と。つまりエディプス起源 [une origine œdipienne]である。そして享楽は禁止に依存する、というのは享楽は禁止の侵犯によるから[la jouissance en dépend parce qu'elle tient à la transgression de l'interdit. ]


そう、まさにラカンはこの禁止の侵犯としての享楽の思考を超えて進んだ。


享楽は禁止のせいでない[la jouissance ne tient pas à une interdiction]。享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は厳密に禁止とは対立する。[la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est de s'opposer précisément à l'interdiction,]。〔・・・〕


享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である[la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme,… elle est l'objet d'une fixation.」 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)