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2021年6月2日水曜日

芸術は沈黙に対する人間の抗議ではなかったろうか

 


確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。oui, l'image est bonheur mais près d'elle le néant séjourne et toute la puissance de l'image ne peut s'exprimer qu'en lui faisant appelil (ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)


これがゴダールの『(複数の)映画史』の結論だ。イマージュが無に支えられているのは何も映画に限らないだろう。すべての絵画はもちろん写真芸術だって本来はその筈だ。


イマージュは対象aを隠蔽している[l'image se cachait le petit (a). ](J.-A. Miller, LES PRISONS DE LA JOUISSANCE, 1994年)

対象aは無である[l'objet a …le rien.](Lacan, E817, 1960、摘要)

無、おそらく?  いや、ーーおそらく無でありながら、無ではないもの

Rien, peut-être ? non pas – peut-être rien, mais pas rien(ラカン、S11, 12 Février 1964)


ラカンの対象aについてはここでは当面突っ込まないでおく。ただし後年、無は穴となったことだけは言っておこう、ーー《対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou  》(Lacan, S18, 27 Novembre 1968)。


ラカンの穴はフロイトの「引力」Anziehung が起源であり、無と穴を引力の三幅対からブラックホールをイメージすればよい。


さて話を戻そう。


音楽にとっての無とは何か。もちろんそれは沈黙だ。


私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。〔・・・〕


私は音楽の形は祈りの形式に集約されるものだと信じている。私が表したかったのは静けさと、深い沈黙であり、それらが生き生きと音符にまさって呼吸することを望んだ。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』1971年)


では「イマージュは無と測りあえるほどに強いものでなければならない」と言いうるだろうか。ーーおそらく。


武満徹にとっての沈黙とはより具体的には次の通り。


沈黙のもつ恐怖についてはいまさら想うまでもない。死の暗黒世界をとり囲む沈黙。時に広大な宇宙の沈黙が突然おおいかぶさるようにしてわれわれを掴えることがある。生まれでることの激しい沈黙、土に還るときの静かな沈黙。芸術は沈黙に対する人間の抗議ではなかったろうか。詩も音楽も沈黙に抗して発音するときに生れた。〔・・・〕


ルネッサンスによって人間くさい芸術が確立し、分化の歴史をたどると、近代の痩せた知性主義が芸術の本質を危うくした。いまでは、多くの芸術がその方式のなかであまりにも自己完結的なものになってしまっている。饒舌と観念過剰は芸術をけっして豊かなものにはしない。〔・・・〕


沈黙に抗って発音するということは自分の存在を証すこと以外の何でもない。沈黙の坑道から己をつかみ出すことだけが<歌>と呼べよう。あるいはそれだけが<事実>のはずだ。〔・・・〕芸術家は沈黙のなかで、事実だけを把りだして歌い描く。そしてその時それがすべての物の前に在ることに気づく。


これが芸術の愛であり、<世界>とよべるものなのだろう。いま、多くの芸術家が沈黙の意味を置き去りにしてしまっている。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』1971年)



《いま、多くの芸術家が沈黙の意味を置き去りにしてしまっている。》ーーさてどうだろう、おわかりだろうか、それともまったく思いもよらぬ言葉だろうか。


ここでやはりラカンを引用しよう、いわゆる前期セミネールからだが、59歳のときの話だ。



シンプルに壺の例を挙げる、つまり現実界の中心にある空虚の存在を表象するものを作り出す対象である。それは空虚にもかかわらずモノと呼ばれる。この空虚は、無として自らを現す。そしてこの理由で、壺作り職人は、彼の手で空虚のまわりに壺を作る。神秘的な無からの創造、穴からの創造として。


Or le simple exemple du vase, …,à savoir cet objet qui est fait pour représenter l'existence  de ce vide au centre de ce réel tout de même qui s'appelle la Chose, ce vide tel qu'il se présente dans la représentation, se présente bien comme un nihil, comme rien.   Et c'est pourquoi le potier, …bien qu'il crée le vase autour de ce vide avec sa main, il le crée tout comme le créateur mythique ex nihilo, à partir du trou.  (ラカン,  S7,  27 Janvier  1960)


芸術制作とは本来、モノとしての無、モノとしての沈黙に対する最後の防衛ではないか。


美は、最後の障壁を構成する機能をもっている、最後のモノ、死に至るモノへの接近の前にある。この場に、死の欲動用語の下でのフロイトの思考が最後の入場をする。〔・・・〕この美の相、それはプラトン(『饗宴』)がわれわれに告げた愛についての真の意味である。


« la beauté » …a pour fonction de constituer le dernier barrage avant cet accès à la Chose dernière, à la Chose mortelle,  à ce point où est venue faire son dernier aveu  la méditation freudienne sous le terme de la pulsion de mort. […]la dimension de la beauté, et c'est cela qui donne son véritable sens à ce que PLATON  va nous dire de l'amour. (Lacan, S8, 23  Novembre 1960)



どうだろう、私はここに武満徹の《死の暗黒世界をとり囲む沈黙…生まれでることの激しい沈黙、土に還るときの静かな沈黙。芸術は沈黙に対する人間の抗議ではなかったろうか》と同じ思考を読まないわけにはいかない。


ラカンの上の思考は晩年まで変わっていない。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


そして、

美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014)


ここでリルケを思い出しておこう。


美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。


Denn das Schöne ist nichtsals des Schrecklichen Anfang, den wir noch grade ertragen, und wir bewundern es so, weil es gelassen verschmäht, uns zu zerstören. Ein jeder Engel ist schrecklich. (リルケ『詩への小路』ドゥイノ・エレギー訳文1、古井由吉)



そしてこのモノが「喪われた対象」としての対象aである。


セミネールVIIに引き続く引き続くセミネールで、モノは対象aになる。dans le Séminaire suivant(le Séminaire VII), das Ding devient l'objet petit a. ( J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un - 06/04/2011)



喪われ対象aの形態…永遠に喪われている対象の周りを循環すること自体が対象aの起源である。la forme de la fonction de l'objet perdu (a), […] l'origine[…] il est à contourner cet objet éternellement manquant. (ラカン、S11, 13 Mai 1964)

享楽の対象としてのモノは喪われた対象である。Objet de jouissance …La Chose…cet objet perdu(Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)



最後に冒頭のゴダールに戻ろう。


確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)


この「無」に何を代入すべきかは、〈あなた〉に任せる。〈あなた〉の愛するイマージュはその「無」が宿っているか否かの判断についても〈あなた〉に任せる。