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2021年6月2日水曜日

すべての職業が屈辱である(武満徹=大島渚)

もう40年前のことだが、武満徹は大島渚の 「すべての職業が屈辱である」を引用しつつこう言っている。



すべての職業が屈辱である

「社会的な存在形態としては、映画監督は映画を撮る職業だから映画を撮っているにすぎない。そしてそのことによって、すべての職業が屈辱である」と、大島渚氏は著書に書いていますが、作曲家である私もその苦い意識から遁れようはないのです。


作曲家という表現行為が否応なく職業化して制度に組み込まれていく。〔・・・〕

作曲家は、すくなくとも私という作曲家の現状は、お便りにあったような<他者の拘束から自由に、自分の内なる理法と感興にだけ従って飛翔し、音という質量も外延もない世界を築いてゆく>ようなものではありません。寧ろその後で指摘されているように、<作られたものを、演奏家や聴衆という「他者」に強制する次の瞬間に、作曲家を待ち構えているかもしれない戦慄の深さ>に怯える存在です。


私はけっして音と触れることの、また、音楽することの喜びを失ったわけではありません。それを知っているから、却って音楽を作る専門家であることを疑わないではいられないのです。


音楽を創る者と、聴かされる大衆という図式は考えなおされなければならないでしょう。しかもそれはきわめて積極的にされなければならない。これまで、疑うことなく在りつづけたこの図式は、別の新たな関係の前に破壊されるでしょう。そうでなければ文化はすべて制度に組み込まれて因習化し、頽廃へ向かうしかない。(武満徹-川田順造往復書簡『音・ことば・人間』1980年)



こういったことは、有名になったから初めて言えるのだというたぐいの批判はあるだろう。とはいえ「職業としての芸術家」というの長年の批判的テーマのひとつだ。


ここではサドとヴァレリー を引用しておく。


作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」)


公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼は己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)




日本でもたとえば高橋悠治がこう言っている。


職業としてのピアニスト

ピアノは生活の手段だった。〔・・・〕ピアニストとみなされると、人が聞きたがるものを弾くことになる。バッハを弾いているとそればかり求められるが、日本では数十年前のグレン・グー ルドの代用品にすぎないから、弾くだけむだと最近は思うようになった。19世紀音楽はだれでも弾くから競争になるだけだし、音楽がもう死んでいて、経済的価値しか残っていない。


20世紀の構成主義や技術主義的な音楽観はバッハやベートーヴェンからシェーンベルクまでのエリートのものだった。音楽が制度であるかぎり、作曲や作品の権威はなくならないのかもしれない。でも、何を弾くかが問題であるうちは、音楽の歴史は作曲家の歴史で、楽譜に書けるようなピッチや時間の長さといった数量が中心である音楽は、市場経済の一部になっていくのだろう。


ピアノを弾くのがいやだった時期が長かった。シンセサイザーやコンピュータ、アジアの伝統楽器に惹かれていたこともあった。電子音には自発的変化がない、擬似ランダムな操作で変化を加えてもそれはほんとうの偶然ではなく、発見がない。伝統楽器は伝統のなかに入らなければ何もできない。残ったのはピアノだけだった。この19世紀の音楽機械、力と速度と量を操作する技術の楽器を異化することができないだろうか。〔・・・〕


確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられない ためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。(高橋悠治「ピアノを弾くこと」2013年)




他方、「職業としての詩人」を自ら受け入れて創作活動をし続けてきた谷川俊太郎のような人がいる。


職業としての詩人

俊太郎)僕は生活がかかってるからね(笑)。そこがほかの詩人との大きな違いでしょうね。

賢作)今はかかってないでしょう(笑)。

俊太郎)う ん、今 は違うよ。でも基本的に生活をかけて仕事をしてきたから、ずっと書き続けてきたってことはあると思います。もちろん詩を書く仕事だけじゃありませんけどね。 僕の同世代の詩人たちは、大学の先生とか定職を持っていた人も多かった。僕は書いて稼ぐしかなかったんです。〔・・・〕


俊太郎)僕は詩を書き始めた頃から、言葉というものを信用していませんでしたね。一九五〇年代の頃は武満徹なんかと一緒に西部劇に夢中でしたから、あれこそ男の生きる道で、原稿書いたりするのは男じゃねぇやって感じでした(笑)。言葉ってものを最初から信用していない、力があるものではないっていう考えでずーっと来ていた。詩を書きながら、言葉ってものを常に疑ってきたわけです。疑ってきたからこそ、いろんなことを試みたんだと思います。だから、それにはプラスとマイナスの両面があると思うんです。(谷川俊太郎&谷川賢作インタビュー、2013年)




谷川俊太郎はここで、大学の先生のような定職を持って詩人活動をするのと職業としての詩人の選択肢があるとすれば、後者を選んだと言っているわけだ。そして詩人として生活するには読者サービスをしなければならない面が出てくる。


大学教師詩人松浦寿輝はこう言っている。



世間にサービスしすぎ

谷川さんは多くの愛読者のいる詩人ですから、皆さんの中でもご存じの方はたくさんいらっしゃると思います。現代詩は狭い世界に押しやられているところがあって、今の西脇順三郎もそれほど一般的な知名度があるわけではありませんが、そうした中で谷川俊太郎さんは例外と言っていい。まあ高校の現代国語の教科書に載ってしまっても異和感がないような詩で、まあちょっと世間にサービスしすぎじゃないのかな、こういうのは歌謡曲の作詞家に任しておけば良いんじゃないのかな、なんて僕などはつい意地悪く考えてしまうこともあるのですが、しかしやはり非常に豊かな詩魂、詩の魂をもった大きな詩人であることは事実です。(松浦寿輝『現代詩――その自由とエロス』2001年)




もうひとつ挙げよう。大江健三郎は「職業としての映画作家」だった相が多分にある伊丹十三がモデルの「吾良」にこう語らしている。


古義人の最初の短篇が大学新聞に載った時から、吾良は手放しの賞め言葉をつたえることはしなかった。それは向こう側へ移るまで続いた、不変の態度だった。一方、封切りごとに、吾良の映画を古義人も見たが、そしてこのような映画を作ることのできる監督は日本に他にいないと認めながら、吾良が宣伝用のテレヴィ出演でくだいて説明する映画の文法については、新作ごとにそれが通俗的になると感じた。それを吾良に直接いいもした。そのうち、吾良は古義人に新作への感想を聞こうとしなくなったのだった。


――きみはいま、自分の小説が誰に読まれると思ってるんだろう? 新進作家となってからある年齢まで、きわめて大きい読者というのではないが、まあ純文学としては例外的な部数の作家がきみだった。いまも、こうして生活できるだけの本の売れ行きは維持している。そうきみはいいたいだろう? むしろそれがあるために、きみには、自分がいまどういう読者に読まれているか、先行きはどうか、という配慮と、どのようにして新しい読者を獲得するか、という企業努力が欠落しているよ。


映画だと、そういう悠長なことは誰もやってられないぜ。おれの場合、映画会社に所属しているわけじゃないしーーといっても、そういう所も軒並赤字だがなーー興行不振が二度続けば、もう次の作品を撮る見込みはない。それを千樫が話すと、いや吾良ならそうじゃないだろうと、きみはいったそうだが、こういう点でもきみの時代認識はズレているんだ。こちらの作るものは「寅さん」じゃないから、観客は変わり続けるしね、いかに新しい観客を開拓するかが、緊急な課題なんだ。だからといって、自分に面白い主題を、自分の作り方で撮る、その大枠を外すわけではないんだぜ……


ところが古義人はさ、考えてみれば驚くべきことだが、この三十年ほども、読者のことを考えて主題と書き方を選んだ形跡がない! きみは小説の第一稿を書いた後、一日十時間働く日々を延々と重ねてさ、すっかり書きなおすだろう? 当然に文章は読みづらいものになってゆく。確かに練り上げられてはいるが、自然な呼吸じゃない人工の音楽になるからね。「異化」というきみの御得意の手法もさ、毎ページ見なれぬイメージにつきあわされては、たいていの読者が、同じ作家の本をもう一冊買おうとは思わないね。これもきみの用語法だけれど、労作(トラヴァーユ)は作家のやることで、読者がやらされるものじゃない。(大江健三郎『取り替え子』2000年)



そしてランボーを引用しつつ「あらゆる芸術がキッチュだ」と吾良に言わせる。



あらゆる芸術がキッチュ  

古義人のことをね、定まり文句で嘲弄するやつがいるね。サブカルチュアに対して差別的な、時代遅れの純文学、純粋芸術指向のバカだとさ。しかし、おれはそうは思わないんだ。きみの書いているものをふくんで、あらゆる文学が、むしろあらゆる芸術が、根本のところでキッチュだ、と長らく小説を書いてきたきみが承知していないはずはないからね。そうしてみれば、おれの作った、お客の入りのすこぶるいい映画をね、おれ自身、もとよりキッチュな光暈をまといつかせてやってきた。おれはあらゆる祝祭と、あらゆる勝利と、あらゆる劇とを創造した、とホラを吹いたとして、きみは笑わないのじゃないか? 〔・・・〕


さて、それからランボオはこういうんだ。〈仕様がない! 私は自分の想像力と思い出とを、葬らねばならない! 芸術家の、そしてまた物語作者のすばらしい栄光が、持ち去られるのだ。〉


〈とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。〉

いま、このくだりがおれにはじつに身にしみるよ。古義人、きみもそうじゃないか? おれたちのような職業の人間にしてみれば……キッチュの新しい花、キッチュの新しい星を切り売りしてきた人間にしてみればさ、年の残りも少なくなって、こういう覚悟に到るほかはないじゃないか!篁さんはどうだったろう? 


きみはそうしたことを、あの人が癌で入った病室で聞いてみなかったか? 篁さんの音楽こそは純粋芸術で、キッチュなどとは無縁だなどというのじゃあるまいね? 篁さんに最後の愛想をつかされることがあったとしたら、古義人がついにセンチメンタルになって、そう言い張ろうとする時だったぜ!


十六歳の古義人に会った時から、おれはきみに嘘をいうな、といってきた。人を楽しませるため、人を慰めるためにしても嘘をいうな、と言い続けてきた。ついこの前もそういったところじゃないか? しかし、夫子自身が嘘を糧にしてわが身を養って来たことは、それはその通りだった。ふたりともどもにさ、なにものかに許しを乞うことにしようじゃないか、そして出発だ。(大江健三郎『取り替え子』2000年)



《篁さんの音楽こそは純粋芸術で、キッチュなどとは無縁だなどというのじゃあるまいね?》の「篁さん」はもちろん武満徹がモデルである。


ここで大江健三郎がしばしば言及するクンデラ のキッチュの定義を掲げる。



キッチュというドレスを身にまとったモダニティ

キッチュという言葉は、どんなことをしてでも、大多数の人びとに気に入ってもらいたいと望む者の態度をあらわしています。気に入ってもらうためには、あらゆる人びとが理解したいと望んでいることを確認し、紋切り型の考えに仕えなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えの愚かしさを美しさと情緒の言葉に翻訳することなのです。キッチュは、私たち自身にたいする感動の涙を、私たちが考えたり感じたりする平凡なことにたいする涙を私たちに流させます。


どうしても気に入られ、そうすることによって大多数の人びとの関心を得なければならないという必要を考えてみれば、マス・メディアの美学はキッチュの美学にならざるをえません。マス・メディアが私たちの生活のすべてを包囲し、そこに浸透するにつれて、キッチュは私たちの美学にそして私たちの日常の道徳になっていきます。最近まで、モダニズムは紋切り型の考えとキッチュにたいする非順応的抵抗を意味していました。今日では、モダニティはマス・メディアの途方もない活力と一体になっていますし、モダンであるということは、時代に乗り遅れないようにするためのすさまじい努力、このうえなく型どおりであるよりもさらに型どおりであろうとするためのすさまじい努力を意味しています。モダニティはキッチュというドレスを身にまとったのです。(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』所収)



この文はどう読むべきか。文化の大衆化の時代、人はみな多かれ少なかれキッチュであらざるを得ないと読む人がいるかもしれない。


他にもクンデラ は、《キッチュという言葉は、どんなことをしてでも、大多数の人びとに気に入ってもらいたいと望む者の態度をあらわしています》としているが、では内輪に人びとに気に入ってもらいたいと望むことはキッチュではないのか。たとえばツイッター装置での発話は多くの場合、クラスタ内での承認欲のもとにあるだろう。私の感覚では、作家や音楽家のツイートを垣間見るとそこまでキッチュを振り撒くと逆効果だよ、と言いたくなるときがままあるが、インターネット以後の世代の人はそんな感覚も無くなっているのかもしれない。


クンデラ 四つの視線のカテゴリーを掲げているが、これは四種類の承認欲のタイプとしてよいだろう。



四つの視線のカテゴリー

誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。(…)政治家になる道を選ぶ人間は、その人間が大衆の好意を得るという、素朴でむき出しの信仰を持って、自らすすんで大衆を自分の判定者にする。

政治家、スター、TV キャスター等

第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。…この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。このことは第一のカテゴリーの人たちのほとんどすべてに遅かれ早かれ一度はおこる。それに反して第二のカテゴリーの人はそのような視線をいつでも見つけ出す。

社交家

次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。

愛する人

そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。

夢想、理念、死者等


この四区分を受け入れるなら、③④はキッチュではないと言いうる。もっとも仮に③④から始めても、人は有名になることによって、①②に移行する傾向がある。


ここでは中井久夫と吉行淳之介=グレアム・グリーンを掲げておこう。


芥川賞を初め、文学賞受賞作と受賞後第一作との相違を次のように定式化することができる。受賞作にあるあらゆる萌芽的なもののうち、受賞第一作においては、受賞によって光りを当てられた部分が突出しているとーー。しばしば、受賞作にある豊穣さは第一作においては単純明快化による犠牲をこうむっている。(中井久夫 「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」)


ぼくはずいぶん長い間、あの時期のことを思い返すたびに、まるで石の下の虫のように復讐欲が生きながらえているのに気がついたものである。唯一の変化は、 石の下を見ることがだんだん頻繁でなくなってゆくことであった。ぼくが小説を書きはじめると、過去はその力の一部分を失うようになった。それは書かれることによって、ぼくから離れたのである。(グレアム・グリーン『復讐』)


これでは、まるで復讐の武器として小説を選んでいる印象を与えるが、それだけのことではあるまい。少年のころ、激しく傷つくということは、傷つく能力があるから傷つくのであって、その能力の内容といえば、豊かな感受性と鋭い感覚である。そして、例外はあるにしても、その種の能力はしばしば、病弱とか異常体質とか極度に内攻する心とか、さまざまなマイナスを肥料として繁ってゆく。そして、そういうマイナスは、とくに少年期の日常生活において、大きなマイナスとして作用するものだ。さらに、感受性や感覚のプラス自体が、マイナスに働くわけなので、結局プラスをそのままプラスとして生かすためには、文学の世界に入って行かざるを得ない。〔・・・〕

文学作品をつくる場合、追究するテーマというものがあり、もちろんそれを追究する情熱というものがあるわけだが、これはいわば「近因」である。一方、その作者がむかし文学をつくるという場所に追い込まれたこと、そのときの激しい心持ち、それが「遠因」といえるわけで、その遠因がいつまでもなまなましく、一種の情熱というかたちで残っていないと、作品に血が通ってこない。追い込まれたあげくに、一つの世界が開かれるのを見るのである。〔・・・〕


一人前の作家として世間に認められたとき、「遠因」が消え失せてしまう、とおもわせるところがある。〔・・・〕しかし、グリ ーンもそんなことでは埋めることのできない、深い暗い穴を心に持っていた、と考えるべきであろう。(吉行淳之介『「復讐」のために ─文学は何のためにあるのか─』)