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2021年6月22日火曜日

イマジネールな享楽/固着の享楽

 このミレールの文はわかりやすいんじゃないかな、エアリプとして引用しとくよ。


ラカンの最初の教えにおいて、享楽はとりわけイマジネールなものとして現れる。La jouissance …dans le premier enseignement de Lacan, elle figure avant tout comme imaginaire〔・・・〕


イマジネールな享楽は、ラカンがフロイトのナルシシズム理論から展開させたものだ。イマジネールな享楽概念は、欲動理論から展開されていない! イマジネールな享楽は本質的にイマージュのナルシシズム的享楽[la jouissance narcissique de l'image]だ。そして享楽のイマジネールな地位は、症状の享楽[la jouissance du symptôme]を明らかにするようになる時、お釈迦となる。それは基本的に、ラカンがフロイトの『制止、症状、不安』を真剣に取り上げた瞬間からだ!

La jouissance imaginaire, c'est ce que Lacan a élaboré à partir de la théorie freudienne du narcissisme. La notion de jouissance imaginaire n'est pas élaborée à partir de la théorie des pulsions !, elle est élaborée à partir de la théorie du narcissisme. C'est essentiellement la jouissance narcissique de l'image. Et ce statut imaginaire de la jouissance défaille quand il s'agit de rendre compte de la jouissance du symptôme -  : c'est au fond le moment où Lacan a pris au sérieux Inhibition, Symptôme et Angoisse ! 

そして享楽はイマジネールな地位とは別の地位として明示化されることになる。Et ça impose d'élaborer pour la jouissance un autre statut que le statut imaginaire.〔・・・〕

われわれはそれを区別しなければならない。もしそうでなければ、享楽はたんに「影と反映」に過ぎない。il faut commencer par avoir distingué …si on ne les distingue pas, la jouissance n'est « qu'ombres et reflets ». (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,  -09/03/2011)


ーー「影と反映」とあるが、これはエクリの冒頭に記されている、ーー《想像界は、影と反映としてのみ現れる[imaginaires  …n'y font figure que d'ombres et de reflets. ]》(Lacan, E11)


さてイマジネールな享楽[la jouissance imaginaire]ーーイマージュのナルシシズム的享楽[la jouissance narcissique de l'image]ーーと症状の享楽[la jouissance du symptôme]が対比されているが、後者の症状とはリアルな症状のことだ。



症状は現実界について書かれることを止めない[le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel ](ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)

現実界は書かれることを止めない[le Réel ne cesse pas de s'écrire](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


そしてこの症状の名は身体の出来事である。


症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン, JOYCE LE SYMPTOME,AE.569, 16 juin 1975)


身体の出来事のフロイトによる名は、固着である、ーー《自己身体の出来事[Erlebnisse am eigenen Körper]=固着[ Fixierung]》(『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年、摘要)


症状は固着である[Le symptôme, c'est la fixation ](J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 - 26/03/2008)


つまり、症状の享楽[la jouissance du symptôme]とは固着の享楽[la jouissance de la fixation]のことだ。


以下の一連の引用群は何度も掲げているが、再掲しておこう。上に引用したラカンの「書かれることを止めない」の意味である。


フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme - 19/11/97)

フロイトにとって症状は反復強迫[compulsion de répétition]に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している、症状は固着を意味する[le symptôme implique une fixation]と。そして固着する要素は無意識のエスの反復強迫に見出されると[ et que le facteur de cette fixation est à trouver dans la compulsion de répétition du ça inconscient. ]。フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は、行使されることを止めないもの[ne cesse pas de s'exercer]である.。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)



というわけで固着の享楽とは、固着による無意識のエスの反復強迫だが、より具体的には、固着点に回帰することである。


享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

分析経験の基盤、それは厳密にフロイトが「固着」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, […]précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion](コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel, 2017年)



固着とは幼少の砌の髑髏のことだ。



頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。


小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)


幼児期の純粋な偶然的出来事は、リビドーの固着を置き残す傾向がある。daß rein zufällige Erlebnisse der Kindheit imstande sind, Fixierungen der Libido zu hinterlassen. (フロイト 『精神分析入門』 第23講 1917年)

フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)


リビドーの固着、享楽の固着とあるように、フロイトのリビドー はもちろんラカンの享楽のことだ。


人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)



というわけだが、イマジネールな享楽に耽けるのも別に悪くはないさ、ーー人生ひまつぶしなんだから(?)、ーーいやいや基本的には地階に対する防衛なんだから。





上階のイマージュのナルシシズム的享楽が、たとえ「影と反映」に過ぎなくともさ。地階がとんでも反復強迫しちゃってそれに堪えきれず、上階にすがるって場合もあるだろうし。


初期幼児期の愛の固着 frühinfantiler Liebesfixierungen.(フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)

愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015)


ーー《リビドーは愛の欲動[Liebestriebe]である》(フロイト『集団心理学と自我の分析』摘要)



フロイトラカンにおいては、基本的には5歳ぐらいまでの「固着=身体の出来事」の反復強迫が核だが、それ以後だって強烈な身体の出来事があれば、もちろん類似の効果がある。



外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



アンコールのラカンとは異なり、晩年のラカンが「ひとりの女」というとき、それはそのあたりにウロウロしている解剖学的女性ではなく、異者ーーフロイトの「異物=異者としての身体」Fremdkörperーーであることに注意。


ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である![ « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme !] (Lacan, S22, 21 Janvier 1975)

ひとりの女は異者である[ une femme … c'est une étrangeté. ] (Lacan, S25, 11  Avril  1978)


要するに「リアルな症状(サントーム)=異者としての身体」であり、これが「身体の出来事=固着」としての症状、さらに「女性の享楽」である。


サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要

サントームは身体の出来事として定義される[ Le sinthome est défini comme un événement de corps](J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un, 30/3/2011)

純粋な身体の出来事としての女性の享楽[ la jouissance féminine qui est un pur événement de corps ] (J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un、2/3/2011)


つまり、「女性の享楽」とは男女両性にある「固着の享楽」であり、別名《サントームの享楽 la jouissance du sinthome》  (Jean-Claude Maleval,   2018)だ。異者としての身体の享楽[la jouissance du corps étranger]と呼んでもよい、ーー《われわれにとって異者としての身体[un corps qui nous est étranger]》(Lacan, S23, 11 Mai 1976)



ひとりの女はサントームである [une femme est un sinthome] (Lacan, S23, 17 Février 1976)

サントームという享楽自体[ la jouissance propre du sinthome] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である[Le sinthome, c'est le réel et sa répétition.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状(誰もが持っている症状)である[Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé,]  (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)






原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

(原)抑圧されたものは異物として分離されている。Verdrängten … sind sie isoliert, wie Fremdkörper 〔・・・〕抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従うDas Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben, (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


でも男女両性とも暗闇に蔓延るのは、おおむね解剖学的女だよ、なぜかってのはさ・・・



出生の器官としての女性器の機能への不快な固着は、究極的には成人の性的生のすべての神経症的障害の底に横たわっている[Die unlustvolle Fixierung an diese Funktion des weiblichen Genitales als Gebärorgan, liegt letzten Endes noch allen neurotischen Störungen des erwachsenen Sexuallebens zugrunde](オットー・ランク『出産外傷』Otto Rank "Das Trauma der Geburt" 1924年)


ーー《不快は享楽以外の何ものでもない[ déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance]》(Lacan, S17, 11 Février 1970)


不快の審級にあるものは、非自我のなかに刻印されている。…非自我は異者としての身体、異物として現れる[ l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, … le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt] (Lacan, S11, 17 Juin  1964)

私の見解では、セクシャリティ自体の領野において不快の独立した源泉がある。Meine Meinung ist, es muss eine unabhängige Quelle der Unlustentbindung im Sexualleben geben.(Freud, Briefe an Wilhelm Fließ, 171, Manuskript K、1896)



・・・またまた話を戻せば(?)、《女性器の機能への不快な固着[Die unlustvolle Fixierung an diese Funktion des weiblichen Genitales]》のオットー・ランクにベケットやらダリやらがイカれたんだ。


私は自分の胎児存在の明瞭な記憶がある[I have a clear memory of my own foetal existence. ](サミュエル・ベケット Samuel Beckett  February 1970 interview)

恐らく読者諸君はまだ自分が母親の子宮内の存在だった誕生以前のあの高度に重要な時期については、まったく記憶していないか、ごくあいまいな記憶しかないかのどちらかであろう。しかし、かくいう私は――そう、私はその時期をまるで昨日のことのようにはっきりと覚えているのだ。(サルバドール・ダリ『わが秘められた生涯』1942年)



ラカンとダリってのはこの話ばかりしてたんじゃないかね





異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[étrange au sens proprement freudien : unheimlich ](Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)



ーー《これ以上は言うまい。話が、医学的[medicynisch ]になってしまうから。》(ニーチェ『この人を見よ』1888年)



「恐るべき真面目さと不器用な厚かましさ」の日本ラカン派注釈なんて読んでも、かえってなんにもわからなくなるぜ、とくに「ひとりの女」について。


真理は女である[die wahrheit ein weib]と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年)


ジジェクやバディウもぜんぜんダメだ。



パンドラの箱があまりにも長く開けられている。われわれは今、ジジェクをもっている。私のセミネールで彼に教えた基本原則を使って、ラカンを「ジジェク化」する彼だ。われわれはバディウをもっている。ラカンを「バディウ化」する彼だ。全くよくない。われわれは、パンドラの箱をもう一度閉じる時だ。


Mais la boîte de Pandore est ouverte depuis longtemps ! Vous avez Zizek qui zizekise Lacan depuis qu'il a appris les rudiments de la doctrine jadis, à mon séminaire de DEA. Vous avez Badiou qui badiouise Lacan, et ce n'est pas joli joli. Il s'agirait plutôt de la refermer, la Pandora's Box.(ジャック=アラン・ミレール 、Eve Miller-Rose et Daniel Roy, Entretien nocturne avec Jacques-Alain Miller, 2017年, PDF


日本フロイト派やラカン派注釈書ももちろんパンドラの箱だよ、焚書処分にすべきだね。


ひとりの女は異者だ、対象aだ、ーー《異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger 》(Lacan, S10, 30 Janvier 1963)


対象もどきに騙されてはならない。


ジジェクは例えば、対象aを彼が《パララックス・ヴュー》、ーーある観点からの小さな逸脱ーーと呼ぶものの類似物とする。ジジェクは、これによって哲学の気まぐれの機能を対象aに適用する。対象aは対象もどきabjetである。幸いにもこのゴマカシはあまりにも瞭然としている。そんなものは機能しない。


Zizek, par exemple, a voulu poser l’objet petit a comme analogue à  ce qu’il appela «parallax view», une petite déviation du point de vue. Cela lui permet d’appliquer l’objet petit a en fonction de son caprice de philosophe. L’objet petit a, abjet. Heureusement, le truc est trop évident. Ça ne marche pas. .(J.-A. Miller, Jacques Rancière, une politique des oasis, 2017年)



ちょっと口が滑っちまったな、焚書は必要ないよ、暇潰しにはいいさ。