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2021年6月23日水曜日

ひとりの女の行き先


例えばニーチェはこう書いている。


君はおのれを「自我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる智なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである。["Ich" sagst du und bist stolz auf diess Wort. Aber das Grössere ist, woran du nicht glauben willst, - dein Leib und seine grosse Vernunft: die sagt nicht Ich, aber thut Ich. ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)


この「自我と肉体」における肉体はエス、あるいは「エスの身体」のことだ。


いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)


このエスの身体をフロイトは「異者としての身体」と呼んだんだよ。


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)




これはラカンも同じ。


われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


で、この異者としての身体の別名が対象aだ。


異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger] (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)


さらなる別名が「ひとりの女」だ。


ひとりの女は異者である[une femme …c'est une étrangeté.  ](Lacan, S25, 11  Avril  1978)


このひとりの女としての異者こそ反復強迫を生む「不気味なもの」だ。


異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

いかに同一のものの回帰という不気味なものが、幼児期の心的生活から引き出しうるか。〔・・・〕心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである。


Wie das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr aus dem infantilen Seelenleben abzuleiten ist  […]Im seelisch Unbewußten läßt sich nämlich die Herrschaft eines von den Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges erkennen, der wahrscheinlich von der innersten Natur der Triebe selbst abhängt, stark genug ist, sich über das Lustprinzip hinauszusetzen, gewissen Seiten des Seelenlebens den dämonischen Charakter verleiht,[…] daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


「内的反復強迫=同一のものの回帰」とあるが、これが永遠回帰だ。


同一の出来事の反復の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


要するにラカン語彙で言えば、「異者としてのひとりの女は永遠回帰する」んだよ。


ま、ほかにもいろんな言い方があるが、これが原点だな。


ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我と呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」と。Ich meine G. Groddeck, der immer wieder betont, daß das, was wir unser Ich heißen, sich im Leben wesentlich passiv verhält, daß wir nach seinem Ausdruck » gelebt« werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächten5. 


この力をグロデックに用語に従ってエスと名付けることを提案する。Ich schlage vor,[...] nach Groddecks Gebrauch das Es.


グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがとてもしばしば使われている。

Groddeck selbst ist wohl dem Beispiel Nietzsches gefolgt, bei dem dieser grammatikalische Ausdruck für das Unpersönliche und sozusagen Naturnotwendige in unserem Wesen durchaus gebräuchlich ist(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)


でもエスの身体はほっといたら死に向かう。


エスの力[Macht des Es]は、個々の有機体的生の真の意図を表す。それは生得的欲求の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。〔・・・〕エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は、心的な生の上に課される身体的要求を表す。


Die Macht des Es drückt die eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesens aus. Sie besteht darin, seine mitgebrachten Bedürfnisse zu befriedigen. Eine Absicht, sich am Leben zu erhalten und sich durch die Angst vor Gefahren zu schützen, kann dem Es nicht zugeschrieben werden. Dies ist die Aufgabe des Ichs […] Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe. Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


つまりラカンの生身の享楽、あるいは「享楽の身体」は、死に向かう。


死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである。pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)

享楽の意志は欲動の名である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)


この享楽の意志がエスの力ーーエスの意志[Willen des Es ](フロイト、1923)ーーであり、力への意志だ。


力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …


すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt... (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)

欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。[Triebe … "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"](ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)


で、死に向かったらイヤだろ、だからやっぱりひとりの女を飼い馴らさないとダメさ。


私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。


Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」第3節『偶然の黄昏』所収、1888)


やっかいなんだよ、欲動=享楽=悦ってのは。完全を目指すんだから。


「完全になったもの、熟したものは、みなーー死を望む Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!」 (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第9節、1885年)

悦が欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。――[- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)

すべての悦は永遠を欲する、ーー深い、深い永遠を欲する!「alle Lust will Ewigkeit »will tiefe, tiefe Ewigkeit!«](ニーチェ 『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第12節、1885年)


要するに完全なる悦ってのは、死の彼岸にある永遠の生のことだ。


ディオニュソス的密儀においてのみ、古代ギリシア人の本能の全根源的事実は表現された。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか?  永遠の生であり、生の永遠回帰である[Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens]。生殖において約束され清められた未来である[die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht]。死の彼岸の生[Leben über Tod ]、流転の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。


spricht sich erst in den dionysischen Mysterien der ganze Untergrund des hellenischen Instinkts aus. Denn was verbürgte sich der Hellene mit diesen Mysterien? Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens, die Zukunft in der Zeugung verheißen und geweiht, das triumphirende Jasagen zum Leben über Tod und Wandel hinaus, (ニーチェ「力への意志」遺稿 1888)


これがお好きだったらひとりのの女に励めよ。そうでなかったら、前回示したように、防衛としてのナルシシズムでいいさ。





自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である[Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)


これが巷間で一般的に愛と呼ばれるものだ。


ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,…  l'amour c'est le narcissisme]  (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)





で、こっちのヤバさはこれだな。


愛とは、人間が事物を、このうえなく、ありのままには見ない状態である。甘美ならしめ、変貌せしめる力と同様、迷妄の力がそこでは絶頂に達する。Die Liebe ist der Zustand, wo der Mensch die Dinge am meisten so sieht, wie sie nicht sind. Die illusorische Kraft ist da auf ihrer Höhe, (ニーチェ『反キリスト者』第23節、1888年)


あるいは、ーーー


愛する者は、じぶんの思い焦がれている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの・最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む[der Liebende will den unbedingten Alleinbesitz der von ihm ersehnten Person, er will eine ebenso unbedingte Macht über ihre Seele wie ihren Leib, er will allein geliebt sein und als das Höchste und Begehrenswertheste in der andern Seele wohnen und herrschen]〔・・・〕


われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーつまり性愛のこういう荒々しい所有欲と不正 が、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーーおそらく愛はエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーという事実に、である[so wundert man sich in der That, dass diese wilde Habsucht und Ungerechtigkeit der Geschlechtsliebe dermaassen verherrlicht und vergöttlicht worden ist, wie zu allen Zeiten geschehen, ja, dass man aus dieser Liebe den Begriff Liebe als den Gegensatz des Egoismus hergenommen hat, während sie vielleicht gerade der unbefangenste Ausdruck des Egoismus ist. ](ニーチェ『悦ばしき知識』14番、1882年)



ーーさあてっと。ひとりの女も愛もイヤだったら、倒錯という道もあるよ。わかるかい? そのあたりのチャチな倒錯じゃなくて新しい倒錯探すんだよ



あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である。我々の実践は何と不毛なことか!


Vous m'avez entendu très souvent énoncer ceci :  que la psychanalyse n'a même pas été foutue d'inventer  une nouvelle perversion [ Rires ]. C'est triste !  Parce qu'après tout si la perversion c'est l'essence de l'homme, quelle infécondité dans cette pratique !  (Lacan, S23, 11 Mai 1976)