このブログを検索

2021年6月28日月曜日

束縛を排して休みなく前へと突き進む

 

ボクは独自のことを言っているつもりは毛ほどもないのだけどな。とくにフロイトラカンについては、巷間にはミスリーディングな注釈が多すぎるので、面倒を厭わず引用しつつこうだと言っている。


ここでは晩年のラカンの簡潔な二文を引こう。


享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel.](Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est  le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)


これを単純にミックスさせれば、享楽は死の欲動となる。どうしたってまがいようがない。

ボクは一文ですむ文のほうを好んで引用してきたけどさ。


死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (Lacan, S17, 26 Novembre 1969)


享楽はマゾヒズム というのだっていいよ。


現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (Lacan, S23, 10 Février 1976)


で、マゾヒズムは死の欲動だ。


マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に居残ったままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. […] daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben1933年)


ここでも、どうしたって享楽は死の欲動だ。


死はラカンが享楽と翻訳したものである[death is what Lacan translated as Jouissance.](J.-A. MILLER, A AND a IN CLINICAL STRUCTURES1988年)

死は享楽の最終的形態である[death is the final form of jouissance]( PAUL VERHAEGHE,  Enjoyment and Impossibility, 2006


この「死は享楽」というのは、「原享楽は死」と言い換えてもよい。


さらにこうも引用して四つ目の確認をしておくよ。


究極的には死とリビドーは繋がっている[finalement la mort et la libido ont partie liée. (J.-A. MILLER,   L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である[Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011


決定だ、バカにもわかる「享楽は死の欲動」。


巷間で一般的に使われている享楽という語は、剰余享楽のことだよ。


装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示され他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970

ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]。われわれは(穴としての)対象aを去勢を含有しているものとして置く[Nous posons l'objet a en tant qu'il inclut (-φ) (J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)


で、この穴埋めとしての剰余享楽の別名は昇華だ。


昇華の対象。それは厳密に、ラカンによって導入された剰余享楽の価値である[des objets de la sublimation. …: ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir introduit par Lacan. ](J.-A. Miller, L'Autre sans Autre,  May 2013



以上、次の通り。





人はみな穴埋めしてるんだ。だから剰余享楽でいいよ、基本的には。


だが欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]、つまり穴埋めは十分にははなされない。


抑圧された欲動[verdrängte Trieb は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む ungebändigt immer vorwärts dringt」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)


欲動はメフィストフェレスの言うように、前へ突き進む。


すべての欲動は実質的に、死の欲動である[toute pulsion est virtuellement pulsion de mort](ラカン, E848, 1966年)


前に向かって、死に向かってとは、享楽の対象に向かってだ。


享楽の対象としてのモノは喪われた対象である。Objet de jouissance …La Chose…cet objet perduLacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  (ラカン、S1120 Mai 1964


つまりは、《喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)に向かってだ。


これは究極的にはそうだと保留しておいてもよい。つまり死に向かわない反復強迫としてのみの死の欲動もある、《われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.]》(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


だが究極的にはこうだ。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939)


この欲動の別名をエスの意志と呼ぶ。ーー《エスの要求圧力の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.》(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


自我の、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。


Ichs […] Es gleicht so im Verhältnis zum Es dem Reiter, der die überlegene Kraft des Pferdes zügeln soll, mit dem Unterschied, daß der Reiter dies mit eigenen Kräften versucht, das Ich mit geborgten. Dieses Gleichnis trägt ein Stück weiter. Wie dem Reiter, will er sich nicht vom Pferd trennen, oft nichts anderes übrigbleibt, als es dahin zu führen, wohin es gehen will, so pflegt auch das Ich den Willen des Es in Handlung umzusetzen, als ob es der eigene wäre. (フロイト『自我とエス』第2章、1923年)



人にはみな「悦への渇き」、原享楽への渇きがある。


欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。Triebe […] "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


このエスの意志の声、異者としての身体の声が聞こえない種族とは、父の名という心的外被が分厚すぎるエディプス的猿だけだよ。学者にはそれが多いだろうがね。


いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)



以上。