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2021年6月27日日曜日

埋めなくちゃいけない、おれには埋まらない・・・


最近一部の研究者のあいだで話題になっている、長いあいだ未発表だったベケットの『心理学ノート Psychology Notes 』(1934/1935)   の最後の頁は、オットー・ランクの次の文が引用されているそうだ。


出生の器官としての女性器の機能への不快な固着は、究極的には成人の性的生のすべての神経症的障害の底に横たわっている[Die unlustvolle Fixierung an diese Funktion des weiblichen Genitales als Gebärorgan, liegt letzten Endes noch allen neurotischen Störungen des erwachsenen Sexuallebens zugrunde](オットー・ランク『出産外傷』Otto Rank "Das Trauma der Geburt" 1924年)


この女性器への不快な固着が、フロイトラカン観点からは究極の「享楽の固着」(リビドーの固着)とすることができる。


不快とは、フロイトの定義上、快原理の彼岸にある欲動であり、ラカンの享楽である。


不快は享楽以外の何ものでもない[déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

不快の審級にあるものは、非自我のなかに刻印されている。…非自我は異者としての身体、異物として現れる l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, […] le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt (Lacan, S11, 17 Juin  1964)



非自我という不快な異者

《フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者のあいだには結びつきがある。il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien》 (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97)、そしてあの unlust が、われわれの存在の核[Kern unseres Wesen](フロイト、1900)である。



現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する。[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

フロイトが固着と呼んだものは、享楽の固着である[c'est ce que Freud appelait la fixation…c'est une fixation de jouissance.](J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)


ーー固着と異者はセットである、《原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen,]》(フロイト『抑圧』1915年、摘要)



一部の研究者のあいだで指摘されているのは、ベケットの名づけえぬもの[L'Innommable]とは、究極的には、女性器ではないかということである。




名づけえないものーー初期ラカンもこの語を使っている。


『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 [la tête de MÉDUSE]》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 [l'objet primitif ]そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 [abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ [l'image de la mort, où tout vient se terminer] …(ラカン, S2, 16 Mars 1955)



先ほど示したトーラス円図の中心の、フロイトの異者としての身体、つまりラカンの対象aは、究極的には子宮のなかの胎児、もしくは母胎だ。


異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,… le (a) dont il s'agit,…absolument étranger] (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

子供はもともと母、母の身体に生きていた [l'enfant originellement habite la mère …avec le corps de la mère]。…子供は、母の身体に関して、異者としての身体、寄生体、子宮のなかの、羊膜によって覆われた身体である[il est,  par rapport au corps de la mère, corps étranger, parasite, corps incrusté par les racines villeuses   de son chorion dans …l'utérus](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)


異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


この胎児あるいは母胎という二面性は、フロイトの定義上そうなる。


疎外(異者分離 Entfremdungen)は注目すべき現象です。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察されます。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかです。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, […] Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)


そして、この胎児あるいは母胎という異者の回帰が、究極の死の欲動=反復強迫=永遠回帰だ[参照]。


女性器は常に回帰する、男にとっても女にとっても。名づけえぬ深淵の永遠回帰。これは性欲とは関係がない。ヤリたくなくても回帰する。これを感知していない人は面の皮が厚すぎるだけだ。面の皮とは、フロイト用語では刺激保護膜[Reizschutzes]、あるいはもっと一般的には心的外被[psychische Umkleidung]。


例えば次の名高い文からでさえ、あの不快なものの回帰との闘いが読めないだろうか?



続けなくちゃいけない、おれには続けられない、続けなくちゃいけない、だから続けよう、言葉をいわなくちゃいけない、言葉があるかぎりは言わなくちゃいけない、彼らがおれを見つけるまで、彼らがおれのことを言い出すまで、奇妙な痛みだ、奇妙な過ちだ、続けなくちゃいけない、ひょっとしてもうすんだのか、ひょっとして彼らはもうおれのことをいっちまったのか、ひょっとして彼らはおれをおれの物語の入り口まで運んでくれたのか、扉の前まで、扉をあければおれの物語、もし開いたら、驚きだ。(サミュエル・ベケット『名づけえぬもの』)


 Il faut continuer, je ne peux pas continuer, il faut continuer, il faut dire des mots tant qu'il y en a, il faut les dire jusqu'à ce qu'ils me trouvent, jusqu'à ce qu'ils me disent – étrange peine, étrange faute, il faut continuer, c'est peut-être déjà fait, ils m'ont peut-être déjà dit, ils m'ont peut-être porté jusqu'au seuil de mon histoire, devant la porte qui s'ouvre sur mon histoire, ça m'étonnerait si elle s'ouvre. ( Samuel Beckett,  L'Innommable, 1953)



ここでいくらか妄想的解釈をさせていただく。そう、扉をあけたら、いつだって深淵だ。どの女も深淵を開く、男はその深淵のなかに落ちることにヌミノーゼ (Numinöse)ーー戦慄と魅惑の神秘(Mysterium tremendum et fascinans)ーーする。


扉があいて、先の女が夏の光を負って立った。縁の広い白い帽子を目深にかぶっているのが、気の振れたしるしと見えた。(古井由吉『山躁賦』杉を訪ねて)



あれッ、ちょっと引用の仕方を間違えたかな、こっちを引用しようと思ったんだがな・・・


ーーおお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか?


- wann, Brunnen der Ewigkeit! du heiterer schauerlicher Mittags-Abgrund! wann trinkst du meine Seele in dich zurück?" (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags」)



ーーま、似たようなもんか、《ひとりの女は精神病においてしか男というものに出会わない une femme ne rencontre L'homme que dans la psychose. 》(ラカン、TELEVISION, AE540, Noël 1973)



破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。Le terme de ravage,…– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré, (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


穴の原理とはダナイデスの樽の原理だ、《享楽はダナイデスの樽である[la jouissance, c'est « le tonneau des Danaïdes » ]》(Lacan, S17, 11 Février 1970)


埋めなくちゃいけない、おれには埋まらない、埋めなくちゃいけない、だから埋め続けよう・・・