「あなたのすべてがあなたを思い出させる。あなた以外は」での話ーー敢えて正面からは示さず脇に逸らして記した話ーーをここではもういくらか正面に近づけて示そう。 |
クローン技術が発達したある未来、両親ににひどく愛された子供が死んだとする。親たちは死児を複製し、すべての特徴が完全に同一の子供を取り戻す。そのとき両親は以前とまったく同じようにこの子供を愛せるだろうか。おそらくそうではない。これが固着としての対象aをめぐる具体的な事例のひとつだ(どこかでラカン派の誰かが書いていた筈だが、いまそれを思い出せないので概要として示している)。 |
私はあなたを愛している。だが私が愛しているのは、奇妙にも、あなたの中にある何かあなた以上のもの、つまり対象aを愛しているのだ[Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a)](ラカン、S11、24 Juin 1964) |
この対象aがフロイトの固着でありうるのは、ラカンは鮮明には言っていない。現代ラカン派ーー私が知る限り1990年代半ば以降、ピエール=ジル・ゲガーン、ポール・バーハウ 、それにジャック=アラン・ミレールーーによって指摘され始めた。ここではミレールのセミネールから掲げる。 |
フロイトが固着と呼んだものは、享楽の固着である[c'est ce que Freud appelait la fixation…c'est une fixation de jouissance.](J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97) |
無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着である[ce qui a (l'objet petit a) de plus réel de l'inconscient, c'est une fixation de jouissance.](J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97) |
分析経験の基盤、それは厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, […]précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
フロイトは固着を、リビドーの固着[Fixierungen der Libido」、欲動の固着[Fixierungen der Triebe]と呼んだが、他にもトラウマへの固着[Fixierung an das Trauma ]=自己身体の出来事[Erlebnisse am eigenen Körper]=自我の傷[Schädigungen des Ichs](『モーセと一神教』1939年)ともしている。 |
享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である[la jouissance est un événement de corps. …la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, …elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021) |
冒頭の話に戻れば、クローンの子供には、両親の「身体の出来事=自我の傷」が書き込まれていないのである。 |
この問いは実はプルーストにもある。 |
ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける[Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. ](プルースト「逃げ去る女」) |
したがってドゥルーズ はプルースト論でこう言ったのである。 |
愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない[les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime](ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年) |
クローンの子供の話だけではない。ある年齢以降の愛とは、ほとんどすべて固着にかかわるのではないか。これがプルーストが、そして現代ラカン派が提出している問いである。
忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour (Lacan, S9, 21 Mars 1962) |
愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015) |
しかもプルーストの問いは、ラカン派を超えて、恋愛だけではないのである。
人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。 それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに[de la nature, de la société, de l'amour, de l'art lui-même]、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている[toute impression est double, à demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-mêmes par une autre moitié]。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」) |
|
…………………
※付記
|
||
「あなたの中にあるあなた以上のもの」 =外密=不気味なもの=モノ=異者=対象a |
||
対象としての外密がある。これが「あなたの中にあるあなた以上のもの」である[il y a aussi un autre extime qui est l'objet, … : « En toi plus que toi ».](J.-A. Miller, L’Autre dans l’Autre, 2017) |
||
ラカンの外密は、フロイトの不気味なものである。これは仏語Wikipediaにさえその明示があるーー《外密という語は、フロイトの不気味なものの翻訳として使用された。Le mot d’extimité […] est à l'époque surtout utilisé comme une traduction du unheimlich de Freud 》(仏語版Wikipedia) |
||
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(Lacan, S7, 03 Février 1960) |
||
モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
||
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974) |
||
ーー《セミネールVIIに引き続く引き続くセミネールで、モノは対象aになる。dans le Séminaire suivant(le Séminaire VII), das Ding devient l'objet petit a.》 ( J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 06/04/2011) |
||
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963) |
||
対象aは外密である[l'objet(a) est extime](Lacan, S16, 26 Mars 1969) |
疎外(異者分離 Entfremdungen)は注目すべき現象です。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察されます。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかです。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, […] Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年) |
|
……………………
異者はかつての少年の私だった [l'étranger c'était l'enfant que j'étais alors] |
私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。(…)最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。 |
je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」Le temps retrouvé (Deuxième partie) ) |
実はプルーストだけではない。フロイトラカンの「対象aとしての異者」はニーチェにもある。 |
異郷にあったおのれの回帰 |
偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。 Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre! つまりは、ただ回帰するだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。 Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle. (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer」1884年) |
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
さらに、ーー。いやあまり牽強付会はしないでおこう。カフカは異郷という語を次のように使っていることだけ示しておく。 |
そこで何時間も流れ過ぎた。かよい合う呼吸、かよい合う胸の鼓動の何時間かであった Dort vergingen Stunden, Stunden gemeinsamen Atems, gemeinsamen Herzschlags, Stunden。そのあいだKは、たえずこんな感情を抱いていた。自分は道に迷っているのだ。あるいは自分より前にはだれもきたことのないような遠い異郷 Fremde へきてしまったのだ。この異郷 Fremde では空気さえも故郷の空気とは成分がまったくちがい、そこでは見知らぬという感情のために息がつまってしまわないではいず、しかもその異郷 Fremdheit のばかげた誘惑にとらえられて、さらに歩みつづけ、さらに迷いつづける以外にできることはないのだ、という感情であった。そこで、クラムの部屋から、おもおもしい命令調の冷たい声でフリーダを呼ぶのが聞こえたとき、それは少なくともはじめには彼にとって驚きではなく、むしろ心を慰めてくれるほのぼのした感じであった。(フランツ・カフカ Franz Kafka『城 DAS SCHLOSS』原田義人訳) |