ああそれは、江戸時代の「天才思想家」富永仲基ーー31歳で亡くなっているーーの言った「加上」だよ。フレイザーの金枝篇だってこの加上の宿命は免れないね。 |
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おほよそ古より道をとき法をはじむるもの、必ずそのかこつけて祖とするところありて、 我より先にたてたる者の上を出んとするがその定まりたるならはしにて、後の人は皆これをしらずして迷ふことをなせり(富永仲基『翁の文』) |
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これ諸教興起の分かるるはみな、もとそのあひ加上するに出づ。そのあひ加上するにあらずんば、則ち道法何ぞ張らん。乃ち古今道法の自然なり。しかるに後世の学者、みないたづらに謂へらく、諸教はみな金口親しく説く所、多聞親しく伝ふる所と。たえて知らず、その中にかへって許多の開合あることを。また惜しからずや」(富永仲基『出定後語』) |
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これだけでは何のことかわからないかも知れないが、富永仲基が言ったことは、すべての思想は、それ以前の思想を何らかの点で乗り越えようとして成立したもので、その意味でいずれも相対的な地位を占めるにすぎないということ。さらに、後代に生まれた思想はその発展の歴史過程で、先発の思想より古い時代にそのルーツを求めて取り入れ加えられていき、複雑さを増していくものだということ。 これは現在に至っても、ほとんどすべての分野で富永が言った通りだ。例えば、プラトン以前に遡ってーー特に語源的にーー、自らの説が至高のものとするハイデガーなんかモロそうだ。 |
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ボクは加藤周一がベタ褒めしてるのを30年ぐらい前に知ってナルホドと思ったけど。
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