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2021年7月27日火曜日

加上説


ああそれは、江戸時代の「天才思想家」富永仲基ーー31歳で亡くなっているーーの言った「加上」だよ。フレイザーの金枝篇だってこの加上の宿命は免れないね。


おほよそ古より道をとき法をはじむるもの、必ずそのかこつけて祖とするところありて、 我より先にたてたる者の上を出んとするがその定まりたるならはしにて、後の人は皆これをしらずして迷ふことをなせり(富永仲基『翁の文』)

これ諸教興起の分かるるはみな、もとそのあひ加上するに出づ。そのあひ加上するにあらずんば、則ち道法何ぞ張らん。乃ち古今道法の自然なり。しかるに後世の学者、みないたづらに謂へらく、諸教はみな金口親しく説く所、多聞親しく伝ふる所と。たえて知らず、その中にかへって許多の開合あることを。また惜しからずや」(富永仲基『出定後語』)


これだけでは何のことかわからないかも知れないが、富永仲基が言ったことは、すべての思想は、それ以前の思想を何らかの点で乗り越えようとして成立したもので、その意味でいずれも相対的な地位を占めるにすぎないということ。さらに、後代に生まれた思想はその発展の歴史過程で、先発の思想より古い時代にそのルーツを求めて取り入れ加えられていき、複雑さを増していくものだということ。


これは現在に至っても、ほとんどすべての分野で富永が言った通りだ。例えば、プラトン以前に遡ってーー特に語源的にーー、自らの説が至高のものとするハイデガーなんかモロそうだ。



ボクは加藤周一がベタ褒めしてるのを30年ぐらい前に知ってナルホドと思ったけど。


富永仲基は政治的見解こそ明らかにしなかったが、知的領域では徳川時代の学者の中でもっとも激しく因習に挑戦した人で、当時の3つのイデオロギー、すなわち神道・仏教・儒教のすべてを真向うから批判したーー反対者の方法に関する彼の明解な説明ほど容赦ない批判はあり得ないだろう。徳川時代の儒教的世界の中で、おそらくは西欧思想と何の接触もなしに、富永仲基が最近まで誰も予想しなかった新しい学問の可能性を、ともかくも予測し、しかもある程度まで発展させたということは、驚嘆に値する。その新しい学問とは、過去のさまざまな思想の連続をいくつかの大きな流れに沿った歴史的発展ととらえる厳密に経験的な科学で、それらの流れはまた思想そのものの展開に内在的な法則、言語の歴史的発展、それぞれの文化の環境的特質によって規定されるものである。(加藤周一「日本文学の変化と持続」)


湯川秀樹)加藤さんは、富永仲基にどうして興味をもたれたかということ、これがまた興味のあることで、うかがいたいのですが。


加藤周一)それは、日本の思想史を私なりにいくらか勉強しているあいだに、思想家としての独創性ですね。その影響はほとんどまったくない人であったけれども、富永仲基の考えそのもののおどろくべき独創性に興味をもったのです。そしてその独創性は、加上、つまり思想史的に儒教も佛教も神道もいっしょに考えることのできるような方法を編みだしたということ、それからこれも古文辞学と関係があるけれども、言語の変遷というか、思想の表現の道具としての言語ですね。そしてその言語自体をまた歴史的な現象として考えて、その発展、それから分類、変遷の過程を分析的にとらえようとしたことですね。これが徂徠、富永仲基、本居宣長と続いていくと思うんですけれども、そのことが一つと、三番目は、たいへん荒っぽい議論かと思いますけれども、くせということ、これはある意味で文化人類学的な考え方の萌芽だと思うんですね。(湯川秀樹との対談ーー加藤周一『三題噺』所収)