フロイトの『トーテムとタブー』(1913年)は、フレイザーの『金枝篇』(1890年-1911年)を初めとして、フレイザーの師匠格に当たるE・B・タイラーの『原始文化』(1871年)、さらにはW・ヴント『神話と宗教』(1906年)に依拠して書かれているところが多い。例えば、第三論文の冒頭近くには、タイラーの名を出しながらこう書かれている。 |
狭義のアニミズムは霊魂観念[Seelenvorstellungen]についての理論であり、広義には精神的存在一般[geistigen Wesen überhaupt]についての理論である。これをさらに類別すると、われわれには無生物と思われている自然に生命があるとする理論、すなわちアニマティズム[Animatismus]、これに動物崇拝[Animalismus]と精霊崇拝 [Manismus]が加わる。アニミズムという名称は、かつては特定の一哲学体系に用いられたものであるが、現在のような意味をもつにいたったのはE・B・タイラーによるものと思われる。(フロイト『トーテムとタブー』第三論文「アニミズム・呪術および観念の万能」第1節、1913年) |
人類学の父と言われることもあるエドワード・バーネット・タイラーの『原始文化』(1871年)のアニミズムの記述をネット上から拾ってみたら、こうある。 |
Animism takes in several doctrines which so forcibly conduce to personification, that savages and barbarians, apparently without an effort, can give consistent individual life to phenomena that our utmost stretch of fancy only avails to personify in conscious metaphor. An idea of pervading life and will in nature far outside modern limits, a belief in personal souls animating even what we call inanimate bodies, a theory of transmigration of souls as well in life as after death, a sense of crowds of spiritual beings, sometimes flitting through the air, but sometimes also inhabiting trees and rocks and waterfalls, and so lending their own personality to such material objects – all these thoughts work in mythology with such manifold coincidence, as to make it hard indeed to unravel their separate action. (Edward Burnett Tylor, Primitive culture, 1871) |
これは簡潔に言えば、おそらくこういうことになるのだろう。 |
アニミズムとは、人間に魂ないしは精霊があるとおなじように、生きているものも生きていないものも、すべての自然物および自然現象、さらに抽象概念もまた、それぞれ魂または精霊を宿すという信仰である。(鶴見和子「曼荼羅 VI」1998 年) |
ところでアニミズムとフェティシズムの相違は何なんだろうか。以前、民俗学者でもあるミシェル ・レリスのジャコメッティ論で次の文に行き当たって、なんだかひどく感心してしまったことがあるのだが。 |
フェティシズムは、最古代には、われわれ人間存在の基盤であった。le fétichisme qui, comme aux temps les plus anciens, reste à la base de notre existence humaine (ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929) |
・・・ということに頭をひねっていたら、こんな記述を見出した。 |
一九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、フェティシズムは「アニミズム」、「トーテミズム」、そして「マナ」といった概念に置き換えられ、事実上、宗教学・人類学の領域から姿を消してゆく。(杉本隆司「啓蒙思想としてのフェティシズム概念」2005年) |
さらに石塚正英という研究者のまさに「フェティシズムとアニミズム」という小論にも行き当たった。 |
アニミズムとフェティシズム、この二つの原初的信仰の差異は何でしょうか。それは、前者において、神霊はこれを信仰する人間と共にある。対して後者において、神霊はこれを信仰する人間がみずからつくる。 後者について敷衍すれば、神が人をつくるのでなく、人が神をつくる。これがフェティシズムです。(石塚正英「フェティシズムとアニミズム・神々は儀礼から生まれた」2020年) |
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フレイザーの理解するアニミズムはフェティシズムに近いです。フレイザーのそのような理解が生まれる背景・根拠の一つとして次のことが指摘できるでしょう。先史古代世界や非ヨーロッパ世界に存在するさまざまな儀礼・信仰、アニミズム、トーテミズム、シャーマニズムなどには、フェティシズムが潜在している、ということです。もっとも原初的な精神運動であるフェティシズムにおいては、人は見たものを見たまま、あるがままに理解する。そこに比喩とか抽象とかは介在しない。それに対してアニミズムでは、人は見たものを比喩的・抽象的に解釈する。そのように精神的・思想的にみて一定程度反省の加わった信仰形態のアニミズムではあっても、しかし儀礼の現象面ではいっそう原初的な信仰形態であるフェティシズムを引きずり、両者は往々習合しているのです。 |
19世紀以降の進化主義者は、進化の過程でどちらが先か後か、という区別をしたがりますし、アニミズムが先で、あるいは本流で、フェティシズムはアニミズムの未熟な段階、あるいは派生や堕落と見たがります。私は、単系発展段階説には立ちません。必要な観点は類型化ないし多様化です。 そのフェティシズム現象を象徴的にいうと、儀礼による神殺害の背景には儀礼による神創出がある、ということです。その際、ここにいう神殺害は、『金枝篇』のモチーフであるアニミズムを意味しています。そして、ここにいう神創出とは、先ほど特徴づけしましたフェティシズムの第一を言い表しています。みずからつくった神であればこそ、また、みずから殺したり再生させたりできるのです。 (石塚正英「フェティシズムとアニミズム・神々は儀礼から生まれた」2020年) |
これはとっても示唆溢れる記述だな、フェティシズム専門家を自認する(?)蚊居肢子にとっては、大きな課題だ。とはいえ13巻もあるフレイザーの金枝篇なんていまさら読むつもりはまったくないが。 ・・などと言わずに冒頭だけを眺めてみると、ターナーの『The Golden Bough』(金枝)(1834)がある。 ここに宗教の起源があるかもよ、あの谷間の穴に輝くものにさ・・・谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤(老子『道徳経』第六章) |
肉体とともに霊魂も衰弱する現象をアニミズムでは説明できない。それはフェティシズムによってこそ解明される。18 世紀中期の啓蒙思想家シャルル・ド=ブロスが説いたフェティシズムによれば、霊魂と肉体は、混然一体とは言わないまでも、不可分離である。一方が他方から分離することはあり得ないので、老いた王の身体から霊魂だけを若い新王に移すということはあり得ない。王が衰弱すれば、霊魂も衰弱し、肉体の死とともに霊魂も死ぬ。「エジプトの偉大なる神々もまた死の運命を免れることはできなかった」というフレーズを素直に解釈するということは、アニミズムでなくフェティシズムに依拠してはじめて叶うのである。(石塚正英『価値転倒の社会哲学―ド=ブロスを基点に』第3章「ド=ブロスの『フェティシュ諸神の崇拝』に読まれるフェティシズム」2020 年) |
シャルル・ド・ブロスはこう書いているそうだ。 |
先に進む前に今一つ注意しておかねばならないことがある。それは、特定の自然の産物に対するこの崇拝[フェティシズム]が俗に偶像崇拝[イドラトリ]と呼ばれる、人工物に対して表される崇拝とは本質的に違うということだ。というのもこのような人工物は、崇敬の念が本当に差し向けられる別の対象[神]を表象しているに過ぎない。だがこれに対して、ここでの崇拝は生きた動物や植物そのものに対して直接に向けられているからである。(シャルル・ド・ブロス「フェティッシュ神の崇拝』1760年) |