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2021年8月27日金曜日

「われわれはあと数十年でヨーロッパをムスリム大陸に変えるだろう」

 

2006年にリビアのムアンマル・アル=カッザーフィーー通称ガタフィ大佐ーーは次のように演説した。


われわれは、ヨーロッパにおいて五千万人のムスリムをもっている。アラーは、ヨーロッパにてイスラムの勝利を授けてくれるだろう、剣も、銃も、征服もなしに。あと数十年でヨーロッパをムスリム大陸に変えるだろう。(ムアンマル・アル=カッザーフィー(ガタフィ大佐)、TIMBUKTU 10 APRIL 2006)


We have 50 million Muslims in Europe. There are signs that Allah will grant Islam victory in Europe without swords, without guns, without conquest will turn it into a Muslim continent within a few decades. (Muammar Al Gaddafi's Speech: TIMBUKTU 10 APRIL 2006)



シリア内戦でヨーロッパへのムスリム難民急増があった「2014ーー2016年」の翌年の2017年、次のようなヨーロッパにおけるムスリム人口予測がされている。




このシナリオはいくらか極端だろうよ、とはいえこの高シナリオでも全ヨーロッパならまだ14パーセントのムスリム比率だ。




妥当なのはミディアムシナリオだろうな。




移民したムスリムのどのくらいの割合がイスラム教からキリスト教に改宗するのか、またヨーロッパで生活するとムスリムの出生率が低下するという話もあって、そのあたりを加味すれば、ヨーロッパが真にムスリム大陸になるのははやくても2100年ごろじゃないかね。でもこれは避けがたい道だろうな。

もともとかつての西洋の中心とは中東で、アッシリアの碑文に、"Erb"「日が没する地方」というのがあり、それが"Europa"の語源となったわけで、かつてのボスが、日が没するヨーロッパなる蛮族の国に住んであげるだけさ。仲良くやらなくちゃな。


Godard, For Ever Mozart 


ムスリムは美女が多いからな、ヨーロッパ地方の女のレベルが上がるよ。










2021年8月26日木曜日

空(クウ)あるいはゼロ

まったく門外漢の者として備忘するが、仏教における空(クウ)は、サンスクリット語では「シューニヤ」 (śūnya)で、《語源的にみると、śūnya は、śū(=śviふくれる)の過去分詞 śūnaからつくられた》そうだ。


「仏教における空について」坂部明(2007年)

(1)空の原語について

空の原語は、サンスクリット語では「シューニヤ」 (śūnya)、パーリ語では「スンニャ」(suñña)である。これらは品詞としては、形容詞、または中性名詞として使われる。すなわち、述語として「……は空である」と表現する。またこの単語には、しばしば抽象名詞を作る語尾taをつけて、シューニヤタ (śūnyatā、空であること、空性)という用語が作られしばしば仏典に現れる。ただ、これらの単語は主語としては用いられないという特徴を持っている。ただし「空亦復空」という場合を除いてではあるが。ここには、空の思想的意味が含まれている。つまり、空という概念を実体としてとらえてはならない、ということなのである。龍樹(ナーガルジュナ)造『大智度論』には、 「空という薬を煩悩という病に用いて治癒したとしても、薬が残っていればなおそれがもとで病となるようなものである。」 といって空にとらわれることを戒めている。意外なことのように見えるかもしれないが、空の精神を実践主体とする『般若経』には、空とは何かという説明は一切ない。空を主語にして、空に実体があるがごとくに説明することはないのである。空は常に述語表現である。ただ空を比喩表現で説明するのみである。〔・・・〕


語源的にみると、śūnya は、śū(=śviふくれる)の過去分詞 śūnaからつくられた。したがって、その単語は、「ふくれあがった、うつろな」という意味である「ふくれあがったものは中がうつろである。われわれは、ここに実体があると思っている。けれども、実体性はしょせん限定されたものにすぎない。これが未来永久に存在するわけではない。ある限られた時間の間だけ存在するものである。だから、実体性は勝義においていえることではない。究極において認められるものではない。どこまでも限られた意味において実在するものである。実体とみえるものも、本質はうつろである。いつかは欠けて、滅びるものである」(中村元『仏教思想 空』1981)。「仏教がこの語を取り上げて用いるときも、それは強い否定の表現であると同時に、究極の真実在を積極的に示唆するものであって、いわば否定を通じての肯定、相対の否定によって絶対を直感することを意図している」(長尾雅人 『中観と唯識』 1979)。

(2)空の比喩について


大乗仏教でいう空という意味は、かならずしも空無を意味しているわけではない。存在を実体としてとらえ、執着して苦悩する自己の解放と、他者にたいしては、自他平等の慈悲心から空観を実践するという立場があるのである。空はなんとしても平易に理解されるべきものである。そこで般若経は十種の比喩を用いて空を説明する。比喩表現を多用するのは、インド人の民族性に由来する。インド論理学の五分作法にも「喩」が存在している。比喩は智者に意義を知らしめるために用いられるという。初期仏教の古層に属するとされる『スッタニパータ』, 『ダンマパダ』にも比喩表現が多くみられるから、この傾向は仏教初期のころから存在していたものと思われる。 般若経に説かれる十種の比喩は次のとおりである。

1.幻(māyā) 

2.焔(marīci) 

3. 水中の月(udaka-candra) 

4.虚空(ākāśā) 

5. 響(pratiśrutkā) 

6. 揵闥婆城(gandharva -nagara) 

7.夢(svapna) 

8.影(pratibāhāsa) 

9.鏡中の像(pratibimba) 

10.化(nirmita).


この中で特に注目すべきなのは、 4.虚空である。 「空」 (śūnya)にはゼロ(0)の意味がある。空が否定的な響きを持っているのはそのためである。ゼロはただ何もないという意味だけではなく、十進法からみればゼロを加えることにより、十倍の数値となるのは周知のとおりである。


この数学のゼロの概念は、インドにおいて発見された。インド数学では、ゼロを表示する語は「シューニャ」のはかにいくつかあるが、その中に「アーカーシャ」 (ākāśā)というのもある。これは虚空の原語である。そしてゼロを表示する語のほとんどが、虚空もしくは雲を意味している。 「シューニャ」にも, 「そら」 (the sky)という意味がある。 これらのことから、ゼロの概念は虚空となんらかの深い関連性が考えられるのである。 仏教の空も、理論的にというよりは、より具象的に、実践的に、虚空の有様を注意深く観察することによって理解されたのではなかろうか。 (坂部明「仏教における空について」2007年)



ところで「子宮=墓」も「膨れる」という意味があるようだ。


現代の私たちは、「墓」の意味をすでに忘れてしまったが、「墓」のギリシア語は tumbos 、ラテン語は tumulus で、共に「膨れる」ということであった。それが英単語の tomb の語源である。tomb は womb の「子宮」と言語的に関連していたのだ。古代の巨石墳墓や塚は死者を再生させる子宮で、墓道は子宮への膣を意味し、子宮を大型化した設計であった。(「古代母権制社会研究の今日的視点―神話と語源からの思索・素描―」松田義幸・江藤裕之、2007、pdf)



ーー仏教の空は、究極的には子宮=墓かもな。



もうひとつ、《 「空」 (śūnya)にはゼロ(0)の意味がある》とあるが、柄谷はこう記している。



ゼロは紀元前のインドで、算盤において、珠を動かさないことに対する命名として、実践的・技術的に導入された。ゼロがないならば、たとえば二〇五と二五は区別できない。つまりゼロは、数の「不在をさまたげることを固有の機能とする」(レヴィ=ストロース)のである。ゼロの導入によって、place-value-system(位取り記数法)が成立する。だが、ゼロはたんに技術的な問題ではありえない。それはサンスクリット語においては、仏教における「空」(emptiness)と同じ語であるが、仏教的な思考はそれをもとに展開されたといっても過言ではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)



これは簡単に言えば、《ゼロ度とは、厳密に言えば、何もないことではない。ないことが意味をもっていることである。》(ロラン・バルト『零度のエクリチュール』1964)ーーということだろうな。


ところでラカンはゼロについてこう言っている。


現実界は全きゼロの側に探し求められるべきである[Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu]〔・・・〕現実界の位置は、私の用語では、意味を排除することだ。[L'orientation du Réel, dans mon ternaire à moi, forclot le sens. ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)


前年のセミネールではこのゼロ、意味の排除を、白紙の意味、白い意味と言っている。

現実界は意味の追放、意味の反ヴァージョンだ。それはまた意味のヴァージョンでもある。現実界は白紙の意味、白い意味だ[Le Réel, c'est l'expulsé du sens, c'est l'aversion du sens. C'est aussi la version du sens… Le Réel c'est le sens en blanc, le sens blanc ](Lacan, S22, 11 Mars 1975)


さらに現実界についてこうも言っている。


欠如の欠如が現実界を為す[Le manque du manque fait le réel] (Lacan, AE573, 17 mai 1976)


これはセミネールⅩに遡れば次のことだ。


不気味なものは、欠如が欠如していると表現しうる[L'Unheimlich c'est …si je puis m'exprimer ainsi - que le manque vient à manquer.  ](Lacan, S10, 28 Novembre 1962、摘要)


ここでフロイトを挿入しよう、《女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. 》(フロイト『不気味なもの 』1919年)


というわけでーー、


女の壺は空虚かい、満湖[plein]かい? あれは何も欠けてないよ[Le vase féminin est-il vide, est-il plein? …Il n'y manque rien. ] (Lacan, S10, 20 Mars 1963 )

女というものは空集合である[La femme c'est un ensemble vide ](Lacan, S22, 21 Janvier 1975)


結局、空ってのは女の壺のことだろ、ーーいやシツレイしました。空信者の方、下品な言い方をしてしまいましたが、どうぞ悪しからず。不気味なものとは、すこし前に記しましたが、「外にある家」のことです。さらに上品にいえば、空というのはきっと蓮華のことです。






※付記



そもそもの原初のlogos はどの地域からどのようにして出てきたものなのか。それはインドの原始ヒンズー教(タントラ教)の女神 Kali Ma の「創造の言葉」のOm(オーム)から始まったのである。Kali Maが「創造の言葉」のOmを唱えることによって万物を創造したのである。しかし、Kali Maは自ら創造した万物を貪り食う、恐ろしい破壊の女神でもあった。それが「大いなる破壊の Om」のOmegaである。


Kali Maが創ったサンスクリットのアルファベットは、創造の文字Alpha (A)で始まり、破壊の文字Omega(Ω)で終わる. Omegaは原始ヒンズー教(タントラ教)の馬蹄形の女陰の門のΩである。もちろん、Kali Maは破壊の死のOmegaで終りにしたのではない。「生→死→再生」という永遠に生き続ける循環を宇宙原理、自然原理、女性原理と定めたのである。〔・・・〕


後のキリスト教の父権制社会になってからは、logosは原初の意味を失い、「創造の言葉」は「神の言葉(化肉)」として、キリスト教に取り込まれ、破壊のOmegaは取り除かれてしまった。その結果、現象としては確かめようのない死後を裁くキリスト教が、月女神の宗教に取って代わったのである。父権制社会のもとでのKali Maが、魔女ということになり、自分の夫、自分の子どもたちを貪り食う、恐ろしい破壊の相のOmegaとの関わりだけが強調されるようになった。しかし、原初のKali Maは、OmのAlpha からOmegaまでを司り、さらに再生の周期を司る偉大な月女神であった。


月女神Kali Maの本質は「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体(trinity)にある。月は夜空にあって、「新月→満月→旧月」の周期を繰り返している。これが宇宙原理である。自然原理、女性原理も「創造→維持→破壊」の三相一体に従っている。母性とは「処女→母親→老婆」の周期を繰り返すエネルギー(シャクティ)である。この三相一体の母権制社会の宗教思想は、紀元前8000年から7000年に、広い地域で受容されていたのであり、それがこの世の運命であると認識していたのだ。


三相一体の「破壊」とは、Kali Maが「時」を支配する神で、一方で「時」は生命を与えながら、他方で「時」は生命を貪り食べ、死に至らしめる。ケルトではMorrigan,ギリシアではMoerae、北欧ではNorns、ローマではFate、Uni、Juno、エジプトではMutで、三相一体に対応する女神名を有していた。そして、この三相体の真中の「維持」を司る女神が、月母神、大地母神、そして母親である。どの地域でも母親を真中に位置づけ、「処女→母親→老婆」に対応する三相一体の女神を立てていた。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf)




2021年8月17日火曜日

バウボの迷宮[Labyrinth der Baubo]

まずラカンの最もベーシックなトーラス円図を掲げよう。



このトーラス円図は種々の変奏がある。例えば左側が$、右側がȺ、真ん中がaとなる、つまり[$ ◊ (a) ◊ Ⱥ]が、現代ラカン派が最も使用するものだ。



これは無意識の主体と斜線を引かれた大他者のあいだには喪われた対象aがあるという形であり、さらに究極の斜線を引かれた大他者は、LȺ Femme、あるいはLȺ Mèreとなる。


とはいえここでは冒頭の最も基本の[男◊ (-φ) ◊女]を使って話を進める。


この男と女のあいだの去勢(-φ)とは、享楽の対象(喪われた対象a)のことである。



享楽は去勢である[la jouissance est la castration.] (Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

私は常に、一義的な仕方で、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している[cet objet(a)...ce que j'ai pointé toujours, d'une façon univoque, par l'algorithme (-φ).] (Lacan, S11, 11 mars 1964)


われわれは去勢[(-φ)]と呼ばれるものを、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、通常示す[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)


« - J »(斜線を引かれた享楽)とは、享楽の喪失、あるいは喪われた対象(去勢された対象)のことだ。


フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)



この前提で、冒頭のトーラス円図を、悦の迷宮[Labyrinth der Lust]図として使用できる。


ニーチェは、アリアドネもディオニソスも迷宮だと言っている。


ああ、アリアドネ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえない[Oh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus” ](ニーチェ、1887年秋遺稿)

ディオニュソス)私はあなたの迷宮だ…[Dionysos: Ich bin dein Labyrinth...](ニーチェ『アリアドネの嘆き』Klage der Ariadne)1887年秋)



したがってこう置ける。



これが悦の迷宮、あるいは永遠回帰図だ。先ほども示したように究極的には左側に無意識の主体(男女も含めた主体)が来て右側にはLȺ Femmeが来るということはあるが、ラカンのトーラス円図とは、この二つが二重に重なっているのである。





そして、「なんでもバウボ」(さらには「不気味な実存の永遠の砂時計」を参照)で示したように、悦の核にあるのが、バウボ[Baubo]であり、これが究極の悦(Lust)の対象だ。したがって、悦の迷宮[Labyrinth der Lust]=バウボの迷宮[Labyrinth der Baubo]となる。


悦の対象(享楽の対象)とは喪われた対象aーー出生とともに去勢された対象ーーのことである。


享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

喪われ対象aの形態…永遠に喪われている対象の周りを循環すること自体が対象aの起源である[la forme de la fonction de l'objet perdu (a), …l'origine…il est à contourner cet objet éternellement manquant. ](Lacan, S11, 13 Mai 1964)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](ラカン、S11、20 Mai 1964)


胎盤、つまり母胎、これがバウボだ。





この享楽の対象、この喪われた悦の対象の周りを循環運動することが、何よりもまず永遠回帰である。


ニーチェのLust、フロイトのLust、これこそニーチェの悦なのである。


我々は、フロイトが Lust と呼んだものを享楽と翻訳する[ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance. ](J.-A. Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)


これは決定的だよ、まがいようがない。


悦が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ[Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.]〔・・・〕すべての悦は永遠を欲する[alle Lust will - Ewigkeit! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第9節1885年)

完全になったもの、熟したものは、みなーー死を欲する[Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第9節、1885年)


ーー《死への道は、悦と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance]》 (Lacan, S17, 26 Novembre 1969)


悦が欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。――[- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)

すべての悦は永遠を欲する、ーー深い、深い永遠を欲する!

[alle Lust will Ewigkeit »will tiefe, tiefe Ewigkeit!«](ニーチェ 『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第12節、1885年)


ディオニュソス的密儀においてのみ、古代ギリシア人の本能の全根源的事実は表現された。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか?  永遠の生であり、生の永遠回帰である[Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens]。生殖において約束され清められた未来である[die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht]。死の彼岸の生[Leben über Tod ]、流転の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。


spricht sich erst in den dionysischen Mysterien der ganze Untergrund des hellenischen Instinkts aus. Denn was verbürgte sich der Hellene mit diesen Mysterien? Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens, die Zukunft in der Zeugung verheißen und geweiht, das triumphirende Jasagen zum Leben über Tod und Wandel hinaus, (ニーチェ「力への意志」遺稿、1888)



さて十全におわかりになったことだろう。少なくともそう期待する。何度か遠回しには示してきた話だが、ここではトーラス円図を使って具体的に提示したのである。ニブイ方用にさらにこうも示しておこう。




ああ、Lucio Fontanaの美! 彼は終生あの割れ目を製作し続けた。彼は永遠回帰の本質を知っていた。




アリアドネの糸は、あの割れ目から漏れ出るのである。


レミ・ベロー曰くの「緋色の筋のまわりにひろがる繊細な苔におおわれた丘」、暁方ミセイ曰くの「蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、/五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子」、そう、あのしっとり濡れた永遠の泉から蜘蛛の糸があなたをーー男女ともであるーー誘うのである・・・


ああ、せつなや! 時間はどこへ行ってしまったのか。わたしは深い泉のなかへ沈んでしまったのではなかろうか。世界は眠るーーWehe mir! Wo ist die Zeit hin? Sank ich nicht in tiefe Brunnen? Die Welt schläft -〔・・・〕


わたしは既に死んだ。事はおわった。蜘蛛よ、なぜおまえはわたしを糸でからむのか。血が欲しいのか。ああ! ああ! 露が降りてくる。時がせまる。Nun starb ich schon. Es ist dahin. Spinne, was spinnst du um mich? Willst du Blut? Ach! Ach! der Thau fällt, die Stunde kommt -  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第4節、1885年)








2021年8月15日日曜日

ラーマクリシュナとオメガΩ


ロマン・ロマンからフロイトへの書簡、そしてフロイトの『文化の中の居心地の悪さ』(1930年)での応答における宗教的感情の起源の議論、それは「大洋的感情[ozeanischen Gefühls]/寄る辺なさ「Hilflosigkeit]」をめぐっており、後者のフロイトの「寄る辺なさ」とは究極的には「喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben]」であることを少し前に示した[参照]。


ところでロマン・ロランのほうの「大洋的感情」は、どうやらラーマクリシュナに大きく影響されているようだ。ロランの『ラーマクリシュナの生涯』に「大洋的」という語が頻出する。ざっとしかこの書を眺めていないが、ネットに落ちていたPDF全体を検索したら"océan"という語が、105箇所も使用されている(Mère Divineは72箇所)。


例えばこの書には、ラーマクリシュナの言葉を引用してこうある。


私が知った唯一のこと、それは私の魂は、かつて経験したことのない、言語に絶する歓喜の大洋[un océan de joie ineffable ]に包まれたことだ。同時に、私自身の深淵に、母なる神[la Mère Divine]の聖なる現前に気づいたことだ。


La seule chose dont je me rendais compte, c’est ue mon âme contenait un océan de joie ineffable dont je n’avais jamais eu l'expérience auparavant. En môme temps, au plus profond de moi-même, j’étais conscient de la présence bénie de la Mère Divine.» (ロマン・ロラン『ラーマクリシュナの生涯』Vie de Ramakrishna、1929年)


ラーマクリシュナについては、19世紀を生きた人気高いインドの聖者であることぐらいは知っていただけでほとんど不詳であり、この際、ネット上で彼の言葉を少しだけ眺めてみた。


こんなことを言っている人らしい。なかなかいい感じだー。


宗教のことで、あっちの人と口論したり、こっちの人とケンカをしたりしている人間がいる。ヒンドゥー教徒と回教徒。ヒンドゥーの中ではシャクティ派、ヴィシュヌ派、シヴァ派とか梵協会という新手、みんな互いにイガミあっている。みっともないねえ。


クリシュナと呼ばれている御方が、同時にシヴァであり、アディヤ・シャクティ、つまりカーリーであり、また同じくイエスでありアッラーであると、ーーこういうことを理解するだけの知性がないからだよ。一つの神に千もの名前があるんだ。

本体は一つ。名前はさまざま。皆は一つのものを求めているんだよ。だが、場所がちがい、器がちがい、名前がちがう。一つの池に沢山の水汲場(ガート)があるだろう。ヒンドゥー教徒は或る場所から水を汲んで水ガメに入れて、ジャルと呼び、回教徒は別なガートから水を汲んで皮袋に入れてパーニと呼び、キリスト教徒はまた別なガートから汲んでウォーターと呼ぶ。


もし互いに、イヤこの品物はジャルじゃないパーニだ、何でパーニなぞであるものか、ウォーターだよ、そうじゃない、ジャルだよ、なんて言い合いをしたら笑い話じゃないか。これが宗教、宗派間の争い、意見のちがい、ケンカだよ。宗教のためになぐり合ったり殺し合ったり、戦争したり、愚かなことだね。どの派の人も皆、あの御方への道を進んでいるんだ。誠心誠意、一生懸命になっていれば、誰でもあの御方一をつかむととが出来るんだよ。


よく聞いておきなさい。ヴェーダ、プラーナ、タントラ、すべての聖典はあの御方に向って祈り、求めているんだよ。他の誰にも祈ってやしない。あの一なるサッチダーナンダsaccidānanda《実在、叡知、歓喜》だ。ヴェー夕でサッチダーナンダ・ブラーマンBrāhmaṇaと呼ぶ御方が、タントラではサッチダーナンダ・シヴァŚivaといい、その同じ御方をプラーナではサッチダーナンダ・クリシュナKṛṣṇaと呼んでいるんだ。(ラーマクリシュナ『不滅の言葉』1884年)




この『不滅の言葉』は弟子たちがラーマクリシュナの言葉を集めたものだそうだが、Wikipediaには次のようにある。


1907年にアベーダーナンダが初期の英訳書を刊行し、1942年にニキラーナンダによる英訳 The Gospel of Ramakrishna が刊行された。こうした英訳では、ラーマクリシュナの言葉のタントラ的な部分、性的な部分の多くが、意識的にか無意識的にか削除されたり、あいまいな表現、象徴的な表現に置き換えられている[3]。このように、ラーマリクシュナ死後、その思想は、問題的な部分を多く含むタントラ的な要素は遠ざけられ、ヴィヴェーカーナンダにならいヴェーダーンタ風に解釈され、ヒンドゥー正統派の本流に置かれるようになり、ラーマクリシュナの聖域化を推し進めるような出版物や論文も少なくない[4]。

1987年に英訳の日本語訳『ラーマクリシュナの福音』が日本ヴェーダーンタ協会訳で出ている。原典の日本語訳としては田中嫺玉と奥田博之によるものがある。(Wikipedia)


実際に原典に当たって調べたわけではまったくないが、ネット上の情報では第三版では削除された箇所が復元されているらしく、「神はヴァギナのなかにいる」という記述があるそうだ。


“God is in the Vagina” – Sri Ramakrishna


The other day, Guha was reading the Bengali original of Sri Ramakrishna Bodhamrtam, translating it into English for us. “I will remove all my clothes and dance before the women; what do you care about it?” Sri Ramakrishna had scolded one of his disciples. Guha continued, “God is in the vagina. God lets me see him in the copulation of two dogs.” Ramakrishna had used much more obscene and vulgar language [than this] in his conversations. But Nikhilananda, in translating, had corrected all that, changing it so that people would be presented with the image of a holy man to hold in their minds.


これはますます気に入ってしまった。いかにもフロイトラカン的で、「宗教の起源は喪われた子宮内生活である」というのと相同的である。


ラーマクリシュナは弟子たちをよく笑わせたそうで、おそらく道化の資質もあったのではないか。


われわれは時折、われわれから離れて休息しなければならないーー自分のことを眺めたり見下ろしたり、芸術的な遠方[künstlerischen Ferne]から、自分を笑い飛ばしたり嘆き悲しんだりする[über uns lachen oder über uns weinen] ことによってーー。


われわれは、われわれの認識の情熱の内に潜む英雄と同様に、道化[Narren]をも発見しなければならない。 われわれは、われわれの知恵を楽しみつづけることができるためには、 われわれの愚かしさをも時として楽しまなければならない!


われわれは、究極のところ、重苦しい、生真面目な人間であり、人間というよりか、むしろ重さそのものなのだから、まさにそのためにこそ、道化の鈴つき帽子[Schelmenkappe]ほど、われわれに役立つものはない。(ニーチェ『悦ばしき知』107 番、1882年)


重要なことは聖者ではない。道化であることである。道化の資質のない聖人などけっして信じるなかれ!


わたしは人間ではない。わたしはダイナマイトだ[Ich bin kein Mensch, ich bin Dynamit]。――だがそれにもかかわらず、わたしの中には、宗教の開祖[Religionsstifter]めいた要素はみじんもないーー宗教とは賤民の関心事である[Religionen sind Pöbel-Affären]。わたしは、宗教的人間と接触したあとでは手を洗わずにはいられない……わたしは「信者[Gläubigen]」などというものを欲しない。思うに、わたしは、わたし自身を信ずるにはあまりに意地わるなのだ。わたしはけっして大衆相手には語らない……わたしは、いつの日か人から聖者と呼ばれることがあるのではなかろうかと、ひどい恐怖をもっている[Ich habe eine erschreckliche Angst davor, daß man mich eines Tags heilig spricht]。

こう言えば、なぜわたしがこの書を先手をとって出版しておくのか、その真意を察してもらえるだろう。わたしは自分が不当なあつかいをされないよう、予防しておくのだ…わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ……[Ich will kein Heiliger sein, lieber noch ein Hanswurst… Vielleicht bin ich ein Hanswurst… ]だが、それにもかかわらず、あるいはむしろ「それだからこそ」――なぜなら、いままで聖者以上に嘘でかたまったものはなかったのだから[denn es gab nichts Verlogneres bisher als Heilige]ーーわたしの語るところのものは真理なのだ。(ニーチェ『この人を見よ』1888年)



これまたWikipediaの記述に頼って申し訳ないが、ラーマクリシュナは《時に女性の身体中にすべてを呑み込む女性器の幻を見て恐怖を感じることもあり…》などともある。


とすれば大洋的感情どころではない。ロマン・ロランはタントラ抜き・骨抜きラーマクリシュナを読んで、宗教的起源を誤解したのではなかろうか。


母なる神[la Mère Divine]は、《不気味なもので、血に飢えた悪魔であり、昼夜、歩き回る》というほうが、ラーマクリシュナのホンネに近いんじゃないか。


エドゥアルト・マイヤー(1906)は、神の原初の性格像を再構築した。神は不気味なもので、血に飢えた悪魔であり、昼夜、歩き回る[Meyer das ursprüngliche Charakterbild des Gottes rekonstruieren: Er ist ein unheimlicher, blutgieriger Dämon, der bei Nacht umgeht und das Tageslicht scheut.](フロイト『モーセと一神教』2.4、1939年)


つまりは聖ペテロの悪魔、ラカンの母である。


身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺテロの手紙、58』)


ラカンはこの  "quaerens quem devoret" という表現を使って次のように言っている。


この満たされない母…母は貪り喰うことのできる何ものかを探し回っている[Cette mère inassouvie,…elle cherche ce qu’elle va dévorer, quaerens quem devoret. ](Lacan, S4, 27 Février 1957)

メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4,  27 Février 1957)


フロイト自身も「貪り喰われる」という表現を使っている。


母への依存性[Mutterabhängigkeit] のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまう?)[umgebracht (aufgefressen?)]というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われるから。(フロイト『女性の性愛』1931年)


ーーパラノイアとあるが、後期ラカン観点では人はみなパラノイアだ。


ラーマクリシュナが言ったとされる「神はヴァギナのなかにいる」という言葉を文字通りに受け入れるなら、必然的にーーいやシツレイ、蚊居肢子の偏った頭では、と言っておかねばならないーー神は貪り喰う形象となる。


女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.](フロイト『不気味なもの』1919年)

メドゥーサの首は女性器を代替する[Wenn das Medusenhaupt die Darstellung des weiblichen Genitales ersetzt,](フロイト、メデューサの首 Das Medusenhaupt(1940 [1922])


『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 [la tête de MÉDUSE]》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 [l'objet primitif ]そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 [abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ [l'image de la mort, où tout vient se terminer] …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)





そもそも原始ヒンズー教(タントラ教)起源の彫像群を少しでも眺めれば(たとえばカジュラホ[Khajuraho])、タントラにおいてーータントラ密教の「性ヨガ」を仮に脇にやるとしてもーーどうして神はオメガΩでないなどと錯覚することができよう?










そもそもの原初のlogos はどの地域からどのようにして出てきたものなのか。それはインドの原始ヒンズー教(タントラ教)の女神 Kali Ma の「創造の言葉」のOm(オーム)から始まったのである。Kali Maが「創造の言葉」のOmを唱えることによって万物を創造したのである。しかし、Kali Maは自ら創造した万物を貪り食う、恐ろしい破壊の女神でもあった。それが「大いなる破壊の Om」のOmegaである。


Kali Maが創ったサンスクリットのアルファベットは、創造の文字Alpha (A)で始まり、破壊の文字Omega(Ω)で終わる. Omegaは原始ヒンズー教(タントラ教)の馬蹄形の女陰の門のΩである。もちろん、Kali Maは破壊の死のOmegaで終りにしたのではない。「生→死→再生」という永遠に生き続ける循環を宇宙原理、自然原理、女性原理と定めたのである。〔・・・〕


後のキリスト教の父権制社会になってからは、logosは原初の意味を失い、「創造の言葉」は「神の言葉(化肉)」として、キリスト教に取り込まれ、破壊のOmegaは取り除かれてしまった。その結果、現象としては確かめようのない死後を裁くキリスト教が、月女神の宗教に取って代わったのである。父権制社会のもとでのKali Maが、魔女ということになり、自分の夫、自分の子どもたちを貪り食う、恐ろしい破壊の相のOmegaとの関わりだけが強調されるようになった。しかし、原初のKali Maは、OmのAlpha からOmegaまでを司り、さらに再生の周期を司る偉大な月女神であった。


月女神Kali Maの本質は「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体(trinity)にある。月は夜空にあって、「新月→満月→旧月」の周期を繰り返している。これが宇宙原理である。自然原理、女性原理も「創造→維持→破壊」の三相一体に従っている。母性とは「処女→母親→老婆」の周期を繰り返すエネルギー(シャクティ)である。この三相一体の母権制社会の宗教思想は、紀元前8000年から7000年に、広い地域で受容されていたのであり、それがこの世の運命であると認識していたのだ。


三相一体の「破壊」とは、Kali Maが「時」を支配する神で、一方で「時」は生命を与えながら、他方で「時」は生命を貪り食べ、死に至らしめる。ケルトではMorrigan,ギリシアではMoerae、北欧ではNorns、ローマではFate、Uni、Juno、エジプトではMutで、三相一体に対応する女神名を有していた。そして、この三相体の真中の「維持」を司る女神が、月母神、大地母神、そして母親である。どの地域でも母親を真中に位置づけ、「処女→母親→老婆」に対応する三相一体の女神を立てていた。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf)