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2021年8月15日日曜日

ラーマクリシュナとオメガΩ


ロマン・ロマンからフロイトへの書簡、そしてフロイトの『文化の中の居心地の悪さ』(1930年)での応答における宗教的感情の起源の議論、それは「大洋的感情[ozeanischen Gefühls]/寄る辺なさ「Hilflosigkeit]」をめぐっており、後者のフロイトの「寄る辺なさ」とは究極的には「喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben]」であることを少し前に示した[参照]。


ところでロマン・ロランのほうの「大洋的感情」は、どうやらラーマクリシュナに大きく影響されているようだ。ロランの『ラーマクリシュナの生涯』に「大洋的」という語が頻出する。ざっとしかこの書を眺めていないが、ネットに落ちていたPDF全体を検索したら"océan"という語が、105箇所も使用されている(Mère Divineは72箇所)。


例えばこの書には、ラーマクリシュナの言葉を引用してこうある。


私が知った唯一のこと、それは私の魂は、かつて経験したことのない、言語に絶する歓喜の大洋[un océan de joie ineffable ]に包まれたことだ。同時に、私自身の深淵に、母なる神[la Mère Divine]の聖なる現前に気づいたことだ。


La seule chose dont je me rendais compte, c’est ue mon âme contenait un océan de joie ineffable dont je n’avais jamais eu l'expérience auparavant. En môme temps, au plus profond de moi-même, j’étais conscient de la présence bénie de la Mère Divine.» (ロマン・ロラン『ラーマクリシュナの生涯』Vie de Ramakrishna1929年)


ラーマクリシュナについては、19世紀を生きた人気高いインドの聖者であることぐらいは知っていただけでほとんど不詳であり、この際、ネット上で彼の言葉を少しだけ眺めてみた。


こんなことを言っている人らしい。なかなかいい感じだー。


宗教のことで、あっちの人と口論したり、こっちの人とケンカをしたりしている人間がいる。ヒンドゥー教徒と回教徒。ヒンドゥーの中ではシャクティ派、ヴィシュヌ派、シヴァ派とか協会という新手、みんな互いにイガミあっている。みっともないねえ。


クリシュナと呼ばれている御方が、同時にシヴァであり、アディヤ・シャクティ、つまりカーリーであり、また同じくイエスでありアッラーであると、ーーこういうことを理解するだけの知性がないからだよ。一つの神に千もの名前があるんだ。

本体は一つ。名前はさまざま。皆は一つのものを求めているんだよ。だが、場所がちがい、器がちがい、名前がちがう。一つの池に沢山の水汲場(ガート)があるだろう。ヒンドゥー教徒は或る場所から水を汲んで水ガメに入れて、ジャルと呼び、回教徒は別なガートから水を汲んで皮袋に入れてパーニと呼び、キリスト教徒はまた別なガートから汲んでウォーターと呼ぶ。


もし互いに、イヤこの品物はジャルじゃないパーニだ、何でパーニなぞであるものか、ウォーターだよ、そうじゃない、ジャルだよ、なんて言い合いをしたら笑い話じゃないか。これが宗教、宗派間の争い、意見のちがい、ケンカだよ。宗教のためになぐり合ったり殺し合ったり、戦争したり、愚かなことだね。どの派の人も皆、あの御方への道を進んでいるんだ。誠心誠意、一生懸命になっていれば、誰でもあの御方一をつかむととが出来るんだよ。


よく聞いておきなさい。ヴェーダ、プラーナ、タントラ、すべての聖典はあの御方に向って祈り、求めているんだよ。他の誰にも祈ってやしない。あの一なるサッチダーナンダsaccidānanda《実在、叡知、歓喜》だ。ヴェー夕でサッチダーナンダ・ブラーマンBrāhmaṇaと呼ぶ御方が、タントラではサッチダーナンダ・シヴァŚivaといい、その同じ御方をプラーナではサッチダーナンダ・クリシュナKṛṣṇaと呼んでいるんだ。(ラーマクリシュナ『不滅の言葉』1884年)




この『不滅の言葉』は弟子たちがラーマクリシュナの言葉を集めたものだそうだが、Wikipediaには次のようにある。


1907年にアベーダーナンダが初期の英訳書を刊行し、1942年にニキラーナンダによる英訳 The Gospel of Ramakrishna が刊行された。こうした英訳では、ラーマクリシュナの言葉のタントラ的な部分、性的な部分の多くが、意識的にか無意識的にか削除されたり、あいまいな表現、象徴的な表現に置き換えられている[3]。このように、ラーマリクシュナ死後、その思想は、問題的な部分を多く含むタントラ的な要素は遠ざけられ、ヴィヴェーカーナンダにならいヴェーダーンタ風に解釈され、ヒンドゥー正統派の本流に置かれるようになり、ラーマクリシュナの聖域化を推し進めるような出版物や論文も少なくない[4]

1987年に英訳の日本語訳『ラーマクリシュナの福音』が日本ヴェーダーンタ協会訳で出ている。原典の日本語訳としては田中嫺玉と奥田博之によるものがある。(Wikipedia


実際に原典に当たって調べたわけではまったくないが、ネット上の情報では第三版では削除された箇所が復元されているらしく、「神はヴァギナのなかにいる」という記述があるそうだ。


“God is in the Vagina” – Sri Ramakrishna


The other day, Guha was reading the Bengali original of Sri Ramakrishna Bodhamrtam, translating it into English for us. “I will remove all my clothes and dance before the women; what do you care about it?” Sri Ramakrishna had scolded one of his disciples. Guha continued, “God is in the vagina. God lets me see him in the copulation of two dogs.” Ramakrishna had used much more obscene and vulgar language [than this] in his conversations. But Nikhilananda, in translating, had corrected all that, changing it so that people would be presented with the image of a holy man to hold in their minds.


これはますます気に入ってしまった。いかにもフロイトラカン的で、「宗教の起源は喪われた子宮内生活である」というのと相同的である。


ラーマクリシュナは弟子たちをよく笑わせたそうで、おそらく道化の資質もあったのではないか。


われわれは時折、われわれから離れて休息しなければならないーー自分のことを眺めたり見下ろしたり、芸術的な遠方[künstlerischen Ferne]から、自分を笑い飛ばしたり嘆き悲しんだりする[über uns lachen oder über uns weinen ことによってーー。


われわれは、われわれの認識の情熱の内に潜む英雄と同様に、道化[Narren]をも発見しなければならない。 われわれは、われわれの知恵を楽しみつづけることができるためには、 われわれの愚かしさをも時として楽しまなければならない!


われわれは、究極のところ、重苦しい、生真面目な人間であり、人間というよりか、むしろ重さそのものなのだから、まさにそのためにこそ、道化の鈴つき帽子[Schelmenkappe]ほど、われわれに役立つものはない。(ニーチェ『悦ばしき知』107 番、1882年)


重要なことは聖者ではない。道化であることである。道化の資質のない聖人などけっして信じるなかれ!


わたしは人間ではない。わたしはダイナマイトだ[Ich bin kein Mensch, ich bin Dynamit]。――だがそれにもかかわらず、わたしの中には、宗教の開祖[Religionsstifter]めいた要素はみじんもないーー宗教とは賤民の関心事である[Religionen sind Pöbel-Affären]。わたしは、宗教的人間と接触したあとでは手を洗わずにはいられない……わたしは「信者[Gläubigen]」などというものを欲しない。思うに、わたしは、わたし自身を信ずるにはあまりに意地わるなのだ。わたしはけっして大衆相手には語らない……わたしは、いつの日か人から聖者と呼ばれることがあるのではなかろうかと、ひどい恐怖をもっている[Ich habe eine erschreckliche Angst davor, daß man mich eines Tags heilig spricht]。

こう言えば、なぜわたしがこの書を先手をとって出版しておくのか、その真意を察してもらえるだろう。わたしは自分が不当なあつかいをされないよう、予防しておくのだわたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ……Ich will kein Heiliger sein, lieber noch ein Hanswurst… Vielleicht bin ich ein Hanswurst… ]だが、それにもかかわらず、あるいはむしろ「それだからこそ」――なぜなら、いままで聖者以上に嘘でかたまったものはなかったのだから[denn es gab nichts Verlogneres bisher als Heilige]ーーわたしの語るところのものは真理なのだ。(ニーチェ『この人を見よ』1888年)



これまたWikipediaの記述に頼って申し訳ないが、ラーマクリシュナは《時に女性の身体中にすべてを呑み込む女性器の幻を見て恐怖を感じることもあり》などともある。


とすれば大洋的感情どころではない。ロマン・ロランはタントラ抜き・骨抜きラーマクリシュナを読んで、宗教的起源を誤解したのではなかろうか。


母なる神[la Mère Divine]は、《不気味なもので、血に飢えた悪魔であり、昼夜、歩き回る》というほうが、ラーマクリシュナのホンネに近いんじゃないか。


エドゥアルト・マイヤー(1906)は、神の原初の性格像を再構築した。神は不気味なもので、血に飢えた悪魔であり、昼夜、歩き回る[Meyer das ursprüngliche Charakterbild des Gottes rekonstruieren: Er ist ein unheimlicher, blutgieriger Dämon, der bei Nacht umgeht und das Tageslicht scheut.](フロイト『モーセと一神教』2.41939年)


つまりは聖ペテロの悪魔、ラカンの母である。


身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺテロの手紙、58』)


ラカンはこの  "quaerens quem devoret" という表現を使って次のように言っている。


この満たされない母母は貪り喰うことのできる何ものかを探し回っている[Cette mère inassouvie,…elle cherche ce qu’elle va dévorer, quaerens quem devoret. ](Lacan, S4, 27 Février 1957)

メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4,  27 Février 1957


フロイト自身も「貪り喰われる」という表現を使っている。


母への依存性[Mutterabhängigkeit のなかにパラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまう?)[umgebracht (aufgefressen?)]というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われるから。(フロイト『女性の性愛』1931年)


ーーパラノイアとあるが、後期ラカン観点では人はみなパラノイアだ。


ラーマクリシュナが言ったとされる「神はヴァギナのなかにいる」という言葉を文字通りに受け入れるなら、必然的にーーいやシツレイ、蚊居肢子の偏った頭では、と言っておかねばならないーー神は貪り喰う形象となる。


女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.](フロイト『不気味なもの』1919年)

メドゥーサの首は女性器を代替する[Wenn das Medusenhaupt die Darstellung des weiblichen Genitales ersetzt,(フロイト、メデューサの首 Das Medusenhaupt(1940 [1922])


『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE]》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif ]そのものがあるすべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer] …(ラカン、S2, 16 Mars 1955





そもそも原始ヒンズー教(タントラ教)起源の彫像群を少しでも眺めれば(たとえばカジュラホ[Khajuraho)、タントラにおいてーータントラ密教の「性ヨガ」を仮に脇にやるとしてもーーどうして神はオメガΩでないなどと錯覚することができよう?










そもそもの原初のlogos はどの地域からどのようにして出てきたものなのか。それはインドの原始ヒンズー教(タントラ教)の女神 Kali Ma の「創造の言葉」のOm(オーム)から始まったのである。Kali Maが「創造の言葉」のOmを唱えることによって万物を創造したのである。しかし、Kali Maは自ら創造した万物を貪り食う、恐ろしい破壊の女神でもあった。それが「大いなる破壊の Om」のOmegaである。


Kali Maが創ったサンスクリットのアルファベットは、創造の文字Alpha (A)で始まり、破壊の文字Omega(Ω)で終わる. Omegaは原始ヒンズー教(タントラ教)の馬蹄形の女陰の門のΩである。もちろん、Kali Maは破壊の死のOmegaで終りにしたのではない。「生→死→再生」という永遠に生き続ける循環を宇宙原理、自然原理、女性原理と定めたのである。〔・・・〕


後のキリスト教の父権制社会になってからは、logosは原初の意味を失い、「創造の言葉」は「神の言葉(化肉)」として、キリスト教に取り込まれ、破壊のOmegaは取り除かれてしまった。その結果、現象としては確かめようのない死後を裁くキリスト教が、月女神の宗教に取って代わったのである。父権制社会のもとでのKali Maが、魔女ということになり、自分の夫、自分の子どもたちを貪り食う、恐ろしい破壊の相のOmegaとの関わりだけが強調されるようになった。しかし、原初のKali Maは、OmAlpha からOmegaまでを司り、さらに再生の周期を司る偉大な月女神であった。


月女神Kali Maの本質は「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体(trinity)にある。月は夜空にあって、「新月→満月→旧月」の周期を繰り返している。これが宇宙原理である。自然原理、女性原理も「創造→維持→破壊」の三相一体に従っている。母性とは「処女→母親→老婆」の周期を繰り返すエネルギー(シャクティ)である。この三相一体の母権制社会の宗教思想は、紀元前8000年から7000年に、広い地域で受容されていたのであり、それがこの世の運命であると認識していたのだ。


三相一体の「破壊」とは、Kali Maが「時」を支配する神で、一方で「時」は生命を与えながら、他方で「時」は生命を貪り食べ、死に至らしめる。ケルトではMorrigan,ギリシアではMoerae、北欧ではNorns、ローマではFateUniJuno、エジプトではMutで、三相一体に対応する女神名を有していた。そして、この三相体の真中の「維持」を司る女神が、月母神、大地母神、そして母親である。どの地域でも母親を真中に位置づけ、「処女→母親→老婆」に対応する三相一体の女神を立てていた。(「古代母権制社会研究の今日的視点 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf