このブログを検索

2021年8月16日月曜日

「分裂病は妄想病、詩は妄想」(中井久夫)

 


最近は知らないが、1980年代から1990年代にかけては、中井久夫が日本における分裂病研究の第一人者と言われることが多かった。その中井久夫が「分裂病は妄想病だ」と言っている、詩も妄想だと。


分裂病が一次的には妄想病ではないかと私が考えていることを言っておく必要がある〔・・・〕詩を書き始める年齢は「妄想能力」の成立の年齢とほぼ一致する。(中井久夫「詩の基底にあるもの」初出「現代詩手帳」第375号、19945月)


より一般的に言えば、分裂病は精神統一病だと言っている。


統合失調症は解体の危機をかけてでも一つの人格を守ろうとする悲壮なまでの努力です。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

「精神分裂病」〔・・・〕。精神科医の神田橋條治氏は,精神を無理にでも統一しようとして失調するのだから「精神統一病」と名づけるべきだと主張していたが、これは単なる逆説ではなく,「統合失調症」の思想を先取りしていた。(中井久夫「「統合失調症」についての個人的コメント」初出「精神看護」20023月号)


妄想とはフロイトの定義において悪いものではない。


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である[Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. ](フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)


ラカン派的に言えば、こうである。


実際は、妄想は象徴的なものだ[En tout état de cause, un délire est symbolique. ]〔・・・〕妄想はまた世界を秩序づけうる。Un délire est aussi capable d'ordonner un monde.J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langageLacan, S25, 10 Janvier 1978


現代ラカン派ではこの妄想をトラウマの穴に対する穴埋め(防衛)と言う(後述)。


これは中井久夫も同じで、21世紀に入って、分裂病(統合失調症)の背後には外傷(トラウマ)があるのではないか、と言っている。


治療はいつも成功するとは限らない。古い外傷を一見さらにと語る場合には、防衛の弱さを考える必要がある。〔・・・〕統合失調症患者の場合には、原外傷を語ることが治療に繋がるという勇気を私は持たない。


統合失調症患者だけではなく、私たちは、多くの場合に、二次的外傷の治療を行うことでよしとしなければならない。いや、二次的外傷の治療にはもう少し積極的な意義があって、玉突きのように原外傷の治療にもなっている可能性がある。そうでなければ、再演であるはずの二次的外傷が反復を脱して回復することはなかろう。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

統合失調症と外傷との関係は今も悩ましい問題である。そもそもPTSD概念はヴェトナム復員兵症候群の発見から始まり、カーディナーの研究をもとにして作られ、そして統合失調症と診断されていた多くの復員兵が20年以上たってからPTSDと再診断された。後追い的にレイプ後症候群との同一性がとりあげられたにすぎない。われわれは長期間虐待一般の受傷者に対する治療についてはなお手さぐりの状態である。複雑性PTSDの概念が保留になっているのは現状を端的に示す。いちおう2012年に予定されているDSM-Ⅴのためのアジェンダでも、PTSDについての論述は短く、主に文化的相違に触れているにすぎない。


しかし統合失調症の幼少期には外傷的体験が報告されていることが少なくない。それはPTSDの外傷の定義に合わないかもしれないが、小さなひびも、ある時ガラスを大きく割る原因とならないとも限らない。幼児心理において何が重大かはまたまだ探求しなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)




………………



ここでラカン派の妄想の定義を掲げよう。


我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する[tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel.]〔・・・〕現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974


この現実界の穴の穴埋めを最晩年のラカンは妄想と呼んだのである。


フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。[Freud…Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)


要するにベースにはトラウマ(穴)がある。


「人はみな狂っている(人はみな妄想する)」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である[ce réel de Lacan …, c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011


そして妄想の別の言い方は、防衛である。


明らかに、現実界はそれ自体トラウマ的であり、基本的情動として原不安を生む。想像界と象徴界内での心的操作はこのトラウマ的現実界に対する防衛を構築することを目指す。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997)

我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である[tous nos discours sont une défense contre le réel Anna Aromí, Xavier Esqué, XI Congreso, Barcelona 2-6 abril 2018


ラカンの「言説」とは社会的結びつき[lien social]という意味であり、つまり「人間関係はすべてトラウマに対する防衛だ」ということになる。


もっとも防衛は十分には為されないが。


結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない。Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz; (フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


以上から、現実界のトラウマに対する防衛が妄想であり、それを穴の穴埋めと言うのがおわかりになったであろうか。


愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou.](Lacan, S21, 18 Décembre 1973)

父の名という穴埋め[bouchon qu'est un Nom du Père (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

父の名の真の本質は言語である[la vraie identité du Nom-du-père, c'est le langage (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)




……………




ここでフロイトに遡ることにする。

フロイトは神経症はトラウマのやまいだと言っている。


神経症はトラウマの病いと等価とみなしうる。その情動的特徴が甚だしく強烈なトラウマ的出来事を取り扱えないことにより、神経症は生じる[Die Neurose wäre einer traumatischen Erkrankung gleichzusetzen und entstünde durch die Unfähigkeit, ein überstark affektbetontes Erlebnis zu erledigen. ](フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte11917年)


もっともフロイトの神経症は二種類ある。現勢神経症(現実神経症)と精神神経症である(事実上、この二つがフロイトにとって全症状)。


現勢神経症の症状は、しばしば、精神神経症の症状の核であり、先駆けである[das Symptom der Aktualneurose ist nämlich häufig der Kern und die Vorstufe des psychoneurotischen Symptoms. ](フロイト『精神分析入門』第24章、1917年)


ラカン派語彙では、この現勢神経症が穴(トラウマ)であり、精神神経症が穴埋め(防衛)である。


中井久夫もこの現実神経症を外傷性神経症として扱っている。


今日の講演を「外傷性神経症」という題にしたわけは、私はPTSDという言葉ですべてを括ろうとは思っていないからです。外傷性の障害はもっと広い。外傷性神経症はフロイトの言葉です。


医療人類学者のヤングによれば、DSM体系では、神経症というものを廃棄して、第4版に至ってはついに一語もなくなった。ところがヤングは、フロイトが言っている神経症の中で精神神経症というものだけをDSMは相手にしているので、現実神経症と外傷性神経症については無視していると批判しています(『PTSDの医療人類学』)。


もっともフロイトもこの二つはあんまり論じていないのですね。私はとりあえずこの言葉(外傷性神経症)を使う。時には外傷症候群とか外傷性障害とか、こういう形でとらえていきたいと思っています。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性によって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。


目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対し、その線の上ではそういうことが起こらないうことがあるのだろう。心的外傷にも身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議ではないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)


フロイトにとって現勢神経症は原抑圧の病いであり、精神神経症は抑圧の病いである。


おそらく最初期の抑圧(原抑圧)が、現勢神経症の病理を為す[die wahrscheinlich frühesten Verdrängungen, …in der Ätiologie der Aktualneurosen verwirklicht ist, ]〔・・・〕精神神経症は、現勢神経症を基盤としてとくに容易に発達する[daß sich auf dem Boden dieser Aktualneurosen besonders leicht Psychoneurosen entwickeln,](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)


ラカンにとっての原抑圧は穴(トラウマ)であり、実にフロイトに忠実である。


私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


原抑圧とは固着のことでもある。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。この欲動の固着[Fixierungen der Triebe は、以後に継起する病いの基盤を構成する。(フロイト『症例シュレーバー 1911年、摘要)

原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung… Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, ](フロイト『抑圧』1915年、摘要)


異者、あるいは異物(異者としての身体)は、フロイトにとってトラウマの名である。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物(異者としての身体 Fremdkörper]) のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


なお当然のことだが、事故による外傷神経症自体、固着(トラウマへの固着)であり、初期幼児期のトラウマ的出来事ーーフロイトはトラウマを心的装置に同化されない[unassimilierbaren「自己身体の出来事Erlebnisse am eigenen Körper]」(モーセ、1939と定義しているーーと同様に、この固着を通した無意識のエスの反復強迫が生じる。


外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している。Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt.(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte1917年)

欲動蠢動は「自動反復」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして(原)抑圧において固着する要素は「無意識のエスの反復強迫」であるTriebregung  […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es,(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)



フロイトはこの点に関しては、初期から最晩年まで一貫している。ラカンがフロイトの遺書と呼んだ論から引用しておこう。


すべての神経症的障害の原因は混合的なものである[Die Ätiologie aller neurotischen Störungen ist ja eine gemischte; ]。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動が自我による飼い馴らしに反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期のトラウマ を、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである[es handelt sich entweder um überstarke, also gegen die Bändigung durch das Ich widerspenstige Triebe, oder um die Wirkung von frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumen, deren ein unreifes Ich nicht Herr werden konnte.

概してそれは二つの契機、素因的なものと偶然的なものとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかにトラウマは固着を生じやすく、精神発達の障害を後に残すものであるし、トラウマ的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態においてもその障害が現われる可能性は増大する。[In der Regel um ein Zusammenwirken beider Momente, des konstitutionellen und des akzidentellen. Je stärker das erstere, desto eher wird ein Trauma zur Fixierung führen und eine Entwicklungsstörung zurücklassen; je stärker das Trauma, desto sicherer wird es seine Schädigung auch unter normalen Triebverhältnissen äußern. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章、1937年)


以上、トラウマとトラウマに対する防衛、これがフロイトラカン理論の核であり、中井久夫もそう考えていることを示した。


…………


なおラカンは詩についてこう言っている。


詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である[la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou.  (Lacan, S24, 17 Mai 1977)


意味の効果が妄想であり、穴の効果がトラウマである。ラカンにとって、詩はトラウマの効果を多くもつ詩がすぐれた詩であり、意味の効果だけの詩は二流品以下である(参照)。


これ自体、中井久夫も同様の考えをもっている、それについては「分裂病親和者と執着気質者」の後半を参照されたし。